虎の尾を踏む2.嘘がつけないということに関して。

僕は嘘をつくのが苦手だ。結構顔に出るらしい。しかし、この嘘や相手に秘密にしておくということは上の考えと一緒にずっと頭に引っかかっていたものでもある。
話は変わるが高校生のころ、「ここだけの話だけど」というイディオムとして"between you and me"というのを覚えたことがある。今では英語のほとんどを忘れてしまっているが、この言葉だけはなぜか妙に頭に残っていた。直訳するなら「あなたとわたしの間」くらいに訳せるが、英語のこの言い回しでは「間(between)」がある。つまり、秘密の話とは僕と君の間にあるもので、すなわち僕と君に書き込まれた時点で、それは他の箇所にも書き込まれる可能性が出てきたということではないだろうか。
昔の言葉で「四知」というものがある。「天知る、地知る、我知る、人知る」。秘密に悪事を働きかけようとしてきた相手に誰かが言った言葉だったと思うけれど、これは秘密の特徴だと思う。秘密は秘密になることの代償に、バレる要素が出てくるということではないだろうか。
「顔に出る」ということについても考えてみる。例えば僕がある秘密(もしくは嘘をつかなければいけないこと)を知ってしまったとする。そうするとそれはもはや秘密を知らなかった僕ではありえない。そしてそれは「秘密を知っているけれど知らないように装う僕」を要請する。重複になるかもしれないが、それは「全く秘密を知らない僕」とは違う。その違いを相手に見抜かれるということがまずは秘密を話すことの前提であるということだ。
そして「顔」だ。先に出てきたレヴィナスは「顔」について、
「私の内なる<他人>の観念をはみ出しつつ<他人>が現前する仕方、これを顔と呼称する」
(『全体性と無限』ISBN:4772001018、邦訳p60)
と書いている。一方で廣松渉は『表情』ISBN:4335100183、。表情を伝統的な知情意の三分法にからめて三つの契機の統一として把握した(正確には僕の大学時代の先生がこの発想を記号論と絡めて発展させているのだけれども。興味のある人は検索をかけてください)。
この二つ(を絡めた論述があったら誰か教えてください、ってお願いばっかだな)が意味するところは、顔は一方的に意味を発信しているということだ。それが「秘密を知っているけれど知らないように装う僕」を発信していないはずがない。そして大事なことは、これが人のコミュニケーション、正確にはコミュニケーションする人の原型なのではないかということだ。対象から意味を受け取り、自分なりに消化した結果を出す。これが「ダダ漏れ」になっていること(同時にそれは「グダグダ受け」でもある)、これが大事なことだと思う。だからこそ、その原型である顔にも出してはいけなかった床屋は穴倉にむかってでも話さずにはいられなかったし(「王さまの耳は…」)、その過程を回路と捉えるなら、その回路がショートを起こしながら自己修復していく過程が「鏡像段階」と言われるものではないだろうか(ちなみに先述の先生は自身の著書の中で鏡像段階が視線的なものだけではないということをどこかの注釈で指摘しています)。すなわち、
「これいっちゃだめだよといわれると何故か言いたくなる」のも
「これ言うのやめた、聞かないほうがいいよと言われるとどんなに聞いたらいやなことでも聞きたくてしかたがなくなる」のも
「顔」「表情」という考え方に代表されるコミュニケーションする人の原型的行動パターンなのではないだろうか(最後に、それは人といっていいかどうかすら問題になってくるような気がするが、とりあえずそれは指摘だけにしておく)。