松下圭一『ロック『市民政府論』を読む』、岩波現代文庫、2014。

まず、本書を読むときの注意点を。
もともとは1987年に出た本の文庫化であるのだが、当時は『市民政府論』が岩波文庫から出ていた(鵜飼信成訳)。現在はそのいわば前篇を含めて訳された『完訳 統治二論』(加藤節訳)に差し替えられており、『市民政府論』はその後半部分に当たる(もっとも、後半部分のみを訳した『市民政府論』(という邦題)は光文社古典新訳文庫版(角田安正訳)に採用されている)。

もう一つは題名の「読む」は「読み込む」と言う意味での「読む」であること、つまり、ロックの『市民政府論』を一度は通読しておく必要があると思われることである。現在の日本のおかれている政治の状況との比較、ロック思想内部(『人間知性論』や『教育に関する考察』など)の比較にページ数が割かれているため、そもそもロックの本がどういうものなのか、ということを知りたい人は、まず元の本にあたるべきだと思う。

僕自身に関して言えば、もっとテキストを読みこんでいくようなものを期待してはいたのだが、それでも、例えば「諸個人」が形成する「社会」と「政府」という3つのレベルのみを想定し、「そこでは、論理的対極つまり個人と国家、社会と政府の間の《中間項》はすべて否定され」ていた*1というところなどは面白く読めた。確かにそう読んだ方がロックの読み方としては正しい。しかし、ロックの使い方を考える際には(著者も指摘しているように)、現在はその《中間項》こそが大きな問題となっていることを見過ごすわけにはいかないように思う*2。著者はこれを「近代」の成立と絡めて論じているが、では「現代」、あるいは「ポスト近代」、もしかしたら著者が日本社会に対して下している診断通り「近代にすらなっていない時代」においてはどのような社会(対政治形態?)をとればよいのか。少なくとも問題はそこまで煮詰まってきている、ということがよくわかる本だと思う。

*1:本書114頁。

*2:古くはデュルケームの『社会分業論』、『自殺論』を読めば、あまりにも巨大化、多様化してしまった社会においてはその帰属意識を保つことは困難であることがわかるし、ロックの市民政府論も大いに参照されているノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』では好きな中間項に所属することができる社会こそがメタ・ユートピアとしてのユートピアであることが示唆されていた。正直、ロックの焼き直しとしてノージックを見ていたところもあったけれども、本書を読むことで、ノージックは何気に結構な飛躍を行っていることに気づかされた。