近藤和敬『数学的経験の哲学』― 一経験論者として ―

本書はカヴァイエスの「数学的経験」なる概念を導きの糸として、これまでの哲学、特に真理概念についての批評を行い、新たな哲学、真理を作り出そうとしている本である*1。本書はこれまで常識ともいえる哲学の概念群(の一部)がいかに近視眼的なものであったかを明らかにしている。

これまでの経験概念は、端的に一つの出来事(とそれを成立させている真理)に対してのみ有効であった。僕がロックから読み取った(と思う)ことからすれば、人は「白紙」に経験したことを書きつけてゆく。そしてその書きつけ方(言語の問題)がうまくいけば正しいこと(真理)に到達できる、そういうことになる。いわば従来の経験概念はスタート地点とゴール地点が決まっており、それを反省によって吟味していく、そういうコースをたどっていたように思われる。

これに対し、筆者の提唱する「数学的経験」は全てが中継地点(あるいは本書の用語法に従えば振る舞いの過程、といってもよいかもしれない)という考え方になる。あるのはこれまでに書きつけられた紙の束、今書きつけられている紙と筆記用具、そして尽きることのない白紙の束、というわけである。ここでは(常識では当たり前だが)経験によって知ったことが新たな経験を要請するし、新たな経験によって、これまでの経験が違った意味を持つこともありうる。ということは正しいこと(真理)は書く、ということによってのみ生み出されることを含意している*2。これまでの経験概念は「何かのため」という感じがあるのに対し、この新たな経験概念は、より経験の中身に即した経験概念であるということができるのではないだろうか。経験論者として見れば、痛恨の一指摘である。

さて、ここまでで「数学的経験」なるものの新しさは何とかわかった。では、その新しさはほかの概念をどう新しくするのだろうか。数学的経験なる概念が概念の刷新を中身としている概念である以上、この問いに応えられなければ、数学的概念の中身が充実したということにはならないだろう。筆者は『カヴァイエス研究』をはじめ、この数学的経験についてはさまざまな論文で考察、発表を行っているが、本書以前はこの数学的経験の中身については、カヴァイエス哲学の体系内部でしか充実は図られていなかったようであるが*3、本書の重要な点はそれをある程度他の哲学分野にも適用していることにその意義があるように思われる。

フーコーが「人間の終焉」について語った時、おそらく大半の人々は同時に「主体の終焉」をもそこに読みこんでしまったのではないだろうか(かくいう僕もその一人であり、その疑問は常に抱いているが)。なぜなら主体というのは自ら(を)考えることができるものであり、そのようなことができる(ことが確認される)のは人間だけであったからだ。しかもこの問題は後期フーコーが主体の問題を改めて取り上げる時に再び混乱する。つまりこのことは1.フーコーが晩年(彼も割と早くに亡くなったので晩年、という言葉を使うことに違和感はあるが)考えを変えたのか、あるいは2.そもそもフーコーは「人間」=「主体」とは考えていなかったのか、そのどちらかであったことを意味している。

本書においては後者の仮説にしたがっての論述がなされているように思われる。しかし、状況はもう少し込み入っているようである。まず、筆者はアルチュセールラカンに拠りながら「主体」と「わたし」を分離する。ここで重要な点は二点ある。一つは、「主体」が「わたし」であることは必ずしもないということであり、もう一つは、これにより「主体」が客体化される、というと変だが、問題を解くという出来事の一配役としてとらえることができることである(「主人」公は解く者から解くモノへと移る)。そして、これまでの「わたし」が問題が解けている地点からの「解-主体」であったこと、それ以外の主体として問題を解く過程としての主体である「問題-主体」があることを本書は提示する。

ここでの議論の進め方に対して、僕の立場は両義的である。まずは賛成的方面から。「問題-主体」という考え方については、その豊富な実例とともに、かなりイメージしやすいものとなっている。解けるか、解けないかそれさえもわからない。しかし、問いによる考えは始まっている。ベルクソンが問うことそれ自体を問題にしたのに対し、そこから解かれる(ことがあるとすれば、だが)までの過程を「問題-主体」の概念およびその実例は見事に示しているように思う。一方、「主体」と「わたし」の問題を(「問題-主体」を明らかにするという意図があるとはいえ)虚偽意識、とまで言っていいのかということについては疑問なしとしない。単純に「問題-主体」としての「わたし」はあり得ないのだろうか。アルチュセール(とここで参照されているジロ)はイデオロギーとして、結果としての振る舞いを措定している。あくまで主観は「フィードバック」「バグ」の主観でしかないように見えてしまう(「パッチ」は概念の発展において当てられる)。一方、カヴァイエスの数学的経験においては、「ふるまい」概念が主観を要請している。真理は大雑把にいって理念化、一般化を通して生成をなすが、そのためにはふるまう何者かが必要になる。ここの違いは小さなものなのだろうか。そして、ふるまうために応召されるのが「わたし」であったとしたなら?

ともかく、今は本書の流れにそうことにする。「問題-主体」をなりたたせているものとしての記号論、「記号的宇宙」からさらにそれをなりたたせる「自然」への考察。僕としてはこのあたりは一気に通読するべき箇所であろうと考える。それはここまでこの経験された常識とは相容れないように思われる考察群(ジェットコースターの上り坂に当たる)の、最後のシメ(こっちは下り坂ね)だからである。ここでは従来の生命に変わり、新たな「有魂/無魂」の区別が導入される。しかしここでも概念/記号の展開においてのみその区別は有効であること、そこで記号的宇宙の調和性が必ずしも世界の調和性ではない海の子についての論述でこの本は閉じられることになる。僕はこのあたりの論述にジェームズの多元的宇宙を垣間見るが、これまでの豊かな論述がその中身をより充実させている。欲を言えば、暴力的な自然もまた必要であろうかと思う。乱暴な想定ではあるが、人のいない自然でも有魂/無魂の自然を論じ切れるか。まあこれはハッピーエンドの映画に無理やりバッドエンドを期待するようなひねくれた態度でもありそうなので、あまり言わないでおこうと思う。

ここからは、僕から筆者への疑問等になる。これらは、一言で言うと僕が経験論者であることに由来する。が、これは筆者に経験論者になるようにということを含意してはいない。どちらかと言えば、「思考の暗がりのなかを彷徨い歩」*4こうとする筆者への、ささやかな観光案内のパンフレットのようなものであれば、と思う。

経験論者として、ヒュームとジェームズはそれぞれに重要な著述家であるが、本書における二人の扱いは少々寂しいものがある。ジェームズはその経験論のラディカルさが評されてはいるものの、結局のところは「そのような経験概念を分析可能にする領域が心理学であると考えていたように」*5筆者には見えており、その注釈にはジェームズはフッサールベルクソンと同じ「心理学を哲学的方法のなかにとり込もうとした」*6哲学者であると見なされている。

筆者の言う「心理学」というものがどういうものなのかは本書で詳しく述べられているわけではないため、僕が筆者の言う「心理学」の外延を正しく理解しているかどうかはわからない。ただ、ジェームズが心理学研究から出発したことは事実である。しかし、その彼が根本的経験論を論ずるに当たって、最初に書いた論文の題名が「意識は実在するか」という修辞疑問文の形をとった題名であったことをまずは抑えておく必要はあるだろう。その上で、ジェームズの後期哲学(いわゆる『心理学原理』や『信ずる意志』ではない)だけに目を向けた場合*7、「プラグマティズム」、「根本的経験論」、「多元的宇宙論」は密接に関連している、と考えた方がよいように思われる。『プラグマティズム』でジェームズはプラグマティズムについて、根本的経験論抜きでも理解可能である旨を述べているが、少なくともジェームズ個人に限ってみればプラグマティズムという考えを生かそうと思えば、これまでの経験論がプラグマティズムに合わず、必然的に根本的経験論という新たな経験論が必要であったのではないか。つまり、ある経験が各要素に分解できるという考え*8では、プラグマティズムにおいて真とされるあらゆる状況に対応できない。そうではなく、経験から真理が導き出されなければならない、もっといえば真理は経験に従属しているのであり、経験を真理に適合するように各要素に分解するなどといったもったいないことはできないのであり、そんなもったいないことをするような働きをする「意識」というものなどは不要なのである。また、そのような経験および真理は経験のたびに生み出されることになる。その真理体系=宇宙観を可能にするのが多元的宇宙論ではなかったのだろうか。こう考えた場合、ジェームズの哲学が「経験概念を分析可能にする領域が心理学であると考えていた」かどうかは、少なくとも僕の考える心理学の範疇では疑わしいように思える。むしろ「根本的経験論」の問題点はそこから一気に飛躍して「多元的宇宙論」に至る、(最初に書いたように)1回の経験でまるで全てが分かるように述べている、その近視眼的な経験概念のとらえ方にあるのではないだろうか。

ヒュームの名については、本書で一回限りの引用となっている*9。しかしながら、「わたしが「神なしの知性」を求めると言ったときには、すでにそれと同時に「人間なしの知性」を求めることをも意味していた」*10ことを問題意識とする本書とのかかわりを想起した時、ドゥルーズニーチェに勝るとも劣らずにヒュームは神、人、知性のかかわりについて問うたのではなかったのだろうか*11。神についてははっきりと神のいない知性を問い、人と知性の関わりに対しては「そんなことを言ったってさ…」「諸君は嘘をついている」*12と言ったのがヒュームではなかっただろうか。もちろん、そのような知性が神や人の知性でしかないことをわかった上で「学者とかになってもいいけど、人であることを忘れてはいけない」(『人間知性研究』)と言ったヒュームは、最終的な地点において筆者の立場と袂を分かつ。しかしながら、従来の経験概念のみをもって、神、人、知性の問題にまで踏み込めるということは、経験概念を思考するうえで重要な手掛かりを提供してくれているとは言えないだろうか。

「経験」概念と「数学的経験」概念の連続性
2人の著述家をもとにいろいろと書いてきたわけだが、結局のところ僕は数学的経験の概念と経験の概念、この2つの概念の連続性が知りたいのだ。そしてこれはカヴァイエスが遺した課題ともいえる。なぜなら彼は「この経験は習慣的に経験と呼ばれているものと関係があるだろうか?(…)とりわけ、物理的経験は、たくさんの異質な要素の複合物であるように思われる。物理的経験について私は今はなにも言わないでおこうと思う」と書いているのだから*13。そして、この観光案内を書こうとしたのは、数学的経験が従来の経験概念と関係を持つにせよ持たないにせよ、そのことをはっきりさせなければいけないと僕が感じているからであろう。この点において、筆者の立場はあまり明確になっていないように思われる。例えば、本書のあとがきでは数学的経験論と(ドゥルーズの、ではあるが)経験論の近さを示そうとしている*14。一方、本書以後の(架空)鼎談において、筆者は、経験概念の検討は「「記述」に関して独特の内在主義を展開することに成功しているように思われる一部の人類学者の仕事」に比較すればさほど重要視されていないように思われる*15。ただ、数学的経験がどのように発生したかを考えた場合、これまでの経験概念の検討を行うことは(直接には関係しないかもしれないけれども)、数学的経験の概念の中身からして必須であるようにも思われるのである。

最後に2つの例題を示すことにする。

本書を読むと、改めて貨幣という記号システムの不思議さに感嘆することになる。まず、貨幣は本書の言う「投機性」を備えている。しかし、その「投機性」は商品、他の貨幣システム(外貨)などを通じてのものである。また、貨幣は参加しなければ使えない(「働かざる者食うべからず」)。要するに、貨幣という記号システムは本書の言う「他者-構造」により自己増大し、流通している。依存している、といってもいいかもしれない。ここに「非の潜在力」が働く余地はあるのだろうか。個人的には何もしないこと(あるいは、自給自足でもよいが)ができるのはどこか、ということを考えた場合、「家」というものが重要であるように思われる。ただ、この場合、わざわざ家から抜け出して「できればしたくないのですが」とバートルビーが言っていることの意味がそこから抜け落ちてしまう。家というものがあまりにこれまで当たり前すぎたため、家の抽象的イメージができない、ということはある。また、家自体が貨幣システムのなかに巻き込まれる、というのも事実だ(住宅ローンの問題はサブプライムローンだけではない)。だが、それでも、貨幣システムにおいて、他者-構造を必須としない「場所」、空間を考える際、家を抽象的に考えることは必要不可欠なのではないだろうか*16

神なしの知性はわかった。しかし、有魂/無魂の区別を導入することで、知性と切り離された信仰の問題は未だ残る。では、信仰ぬきの知識は成立するのか。これまでの知識論は信念抜きの知など認めないだろう。しかし、そのことは知識論を刷新しようとする本書の意図からすればさほど意味は持たない。だが、信仰はいつまでも残るだろうし、それ抜きで知が自己展開するのだろうか。もしかしたら、知それ自身が信仰の契機を持っているのではないだろうか。これは一気に「海の子」までの画を描き切った本書にこそ許される問いであるとは思う。というよりも、問題群をより豊かに(もっと有り体にいえば問題をわざわざややこしくしている感もあるけれども)することで宇宙の中の世界を豊かにしているのが本書の長所でもあるだけに、最初の問題がまた形を変えて戻ってきているようにも思える。ヒュームのところでも述べたが、経験論は神学的要素を組み替えてきたこともその功績の一つである(ロック『統治二論』前篇など)。自然を信じたとして、ではその自然が神のかぶった仮面ではないと、あるいは自然を仮面にしてなにかにかぶせはしないか(想定外の災害、とかね)と、それくらいの憂慮は許されるものと思う。

*1:このため、本書を同筆者の前著『カヴァイエス研究』の続編として位置づけることも可能であろう。

*2:注意。紙の束は真理ではなく、これまで生み出されてきた真理の集積所である。これまた常識では当たり前だが、正しいことの集積は、正しいこととして機能するが、それはこれまで正しかったというかぎりのことである

*3:ここで大急ぎで補足を。まず、カヴァイエス哲学はカヴァイエス本人の夭折により本質的には未完成である。カヴァイエスの後継者ともいえるフランス科学認識論者(エピステモローグ)により復元が試みられてはいるものの、その復元が妥当なものであるのかどうかはまた吟味を要する。すなわち、数学的経験の中身を充実させるためには(1)カヴァイエス哲学そのものを吟味し(『カヴァイエス研究』)、そのうえで数学的経験の充実を(本書以前の諸論文。もちろんカヴァイエス哲学との整合性をとりながら)図らなければいけなかったのである

*4:p408。

*5:p19。

*6:p410。

*7:このため、ジェームズ哲学全体を見ればその分析対象領域が心理学であると見えてもいたしかたないように思える。しかし、筆者は「根本的経験論」のジェームズをベースにコメントしているので、このまま話を進めることにする。

*8:なお、本書p115も参照。「通常の経験という語によって認められるような、任意に与えられた純粋な与件の集まり…」

*9:p346

*10:p16

*11:ドゥルーズがヒューム論(『経験論と主体性』、『ヒューム』)も書いている、ということを指摘するのは釈迦に説法であるだろうが

*12:小泉義之、千葉雅也「思弁的展開とポスト思考の哲学」『現代思想』2013年1月号、pp130-132

*13:カヴァイエス『数学的思考』、p99より孫引き。

*14:p434

*15:「「破局」の「全体性」の只中で思考しつづけるために」、篠原雅武、村澤真保呂との共著、『現代思想』2013年1月号、pp.80-100。「架空」と書いたわけはこのテキストの最初に筆者自身が述べている。

*16:なお、前掲「「破局」の…」で村澤さん、篠原さんが提起している問いともいえる