檜垣立哉『食べることの哲学』(世界思想社、2018)

先日の休みに通読。今僕はベルクソンの本を(『意識に直接与えられたものについての試論』に続き『物質と記憶』)を読んでいるのだが、同じくらいいろいろなことに気づかされたり、考えさせられたりした読書だった*1。ということでこちらの本についてもいくつか気づいたことを書てみようと思う。

森枝卓士さんはこの本を評するにあたり、「競馬好きが高じて、賭博をネタにした本を書いてしまった哲学者」が書いた本として読み始めているが、そのように読んだ結果「競馬と違って、『好きで好きでたまらない』という感じじゃないね。(中略)『狂気』はない。」と、肩透かしを食わされたことを隠していない*2。僕はこの意見に賛同する。それは『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008)はまさにそのような本だったからであり、それを『食べることの哲学』に投影すればそのような感想は十分出てくるものと思われるからだ。
ただ、僕はここで2つの論点を付け加えたい。
1つは、檜垣さんが書いているのはこの2冊だけではないということだ。『食べることの哲学』に戻って考えてみる。檜垣さんは食べることを「われわれは何かを殺して食べている。」*3と喝破している。そして、料理には(レヴィ=ストロースに従い、ある程度単純化しながらも)様々な技法があることを指摘し*4、それは自然と文化の矛盾を統合するものとして描かれている*5。とするならば。つまり、食べることを命と技術の組み合わせとして捕えているのであれば、参照すべきは『賭博/偶然の哲学』ではなく、『ヴィータ・テクニカ』(青土社、2012)ではないだろうか。檜垣さんが第二章の最後でアンパンマンから「遠く離れてしまったかも」*6と書きつつも臓器移植、iPS細胞を論じたということは、そういうことだと思う*7
もう1つは、もし『賭博…』との共通点を探るなら、それは「無責任」ということだと思う。ただ、それが主題化されるのは『食べること…』においては豚のPちゃんの話(第四章)である*8し、『賭博…』においても第三章の最後の方である*9。しかも檜垣さんは(両方の著作において)倫理的に無責任を考えようとしている。わからない。難しい話であることしかわからない。

ここからは疑問点。アメリカ=イギリス=アングロサクソンの料理を焼いたもの=量の文化とし、「生-政治」ならぬ「食-政治」を書こうとしていることについて。僕はアメリカやイギリスの政治には確かに共通点があるように思える。雑に言えば、片方はTPPから、片方はEUから離脱したばかりだし、そこに至る手法も何となく似ているようにも見えるし。でも、そこにどうしても2点、疑問を抱いてしまう。
まず、料理について。既に159頁においてフライドポテトを「境界例」としてしまっているのもそうだけれど、焼くということについて少し考えてみたい*10。先に「われわれは何かを殺して食べている。」という文章を引用したが、そこでは「実際には塩分やミネラルを除き」、という言葉が前についている。つまり本書において食べることとは、おおむね、生命が有機体であることが前提されていると言えるのではないか。このことは重要である。なぜなら、それは「焼きすぎると炭になる」ことでもあるからだ。そして炭-生(なま)までをバリエーションとした場合、焼くことを単純に量として考えてよいのかとついつい考えてしまうのである。食べられるように焼くためには完全に炭になってはいけない。けれども、その範囲であれば人はその炭さえも利用する。ごはんの「おこげ」、寿司ネタによくある「あぶり」、コーヒーの「焙煎」。生の方に近くなれば、ステーキの「レア」、かつおの「たたき」。さらに言えば先ほど除いた炭だって、燃料として食べている、ともいえる*11。要するに、僕はどうしても焼いたものということに関して、単純に「量」としてとらえることができないのだ。
もう1つは、「アメリカ」で医者が医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためにでっち上げられたはず*12の「生命倫理」の学者であるはずの森岡正博さんがなぜウナ子の(まるで『富江』のような)不気味さについて、同じような感想を抱く*13のだろうか。同じものの反復と大量生産は表裏一体であるが、「量」があればよいアメリカ式思考(の発明である生命倫理)において、なぜ同「質」性の不気味さが感じ取られるのか。

最後はサブカルチャーについて。あとがきにおいて、学生からは『銀の匙』(荒川弘)を進められることが多いとのことで、他の参照作品としては『進撃の巨人』(諫山創)、『東京喰種』(石田スイ)が挙げられている。僕としては2作品をあげることで感想に代えたいと思う。以下、ネタバレを含むので注意してほしい。
1つ目は小野不由美さんの『屍鬼*14。死んだものがよみがえり生きている人を襲うようになる、というよくあるホラー話ではあるが、舞台が日本の村(区域整理で現在は正確には村ではないところなんてリアルすぎる)となることで、顔見知りが人外のものとなる、あるいは顔見知りが自分の食料となる(よみがえった死者は人格的には連続している)という状況が生まれる。そして小説は人物(生者/死者を問わず)の一人一人を丁寧に描くスタイルをとっており、独特の世界観が築かれている。ここで僕が注目するのは国広律子という登場人物だ。彼女は死者、生きている人を襲わなければ生きていけない側の登場人物である。『食べることの哲学』では食べることは何らかの形で自分と似ている(少なくとも、「生きている」という点で)生き物を殺して食べることとそこからの忌避、反転としての拒食が論じられているが*15、まさにその両者を体現する人物として彼女は描かれている。そしてさらに注目すべき点として、生者を逃がす場面で、小野さんは彼女に自分はエゴイストであると発言させているのである*16。これは檜垣さんの「(引用者注:ほかの生き物を殺す=食べることの)この忌避は、一面では限りなく自己を純化させる欲望なのではないか」*17という問いかけと通底するものである。というより、僕は最初『屍鬼』を読んだとき、なぜ律子が生者を襲わない自分をエゴイストと規定しているのかよくわからなかった。しかし『食べることの哲学』を読んだ今、それは「生物や動物性を持たない自分の部分を最大に際立たせようというおこない」*18であること、そしてそれはもしかしたら死者側の社会*19というある種の文化的形態からも自己を押し通すという意味でのエゴイストであることが理解できる*20*21
もう1つの作品は『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(エルフ、1996→mages./5pb.、2017)。この作品を挙げたのは本書の7頁以降何度も出てきている2つのタブー、その両方を描いてしまった作品であるからに他ならない*22。そしてそこで僕が気になるのはそのタブーの配置の仕方である。東さんが指摘しているように、このゲームは前半と後半で世界観が異なっている。前半は日常世界ではあるものの複数のパラレルワールドを行き来できるという設定、後半はいわゆる幻想的な世界ではあるがストーリーほぼ一本道という設定になっている。興味深いのは2つのタブーが後半の世界での出来事に配置されている、ということだ。日常的世界でタブーを描くよりも幻想的世界でタブーを描く方がフィクション性が増すという意味において、それは十分理解できる。ではもう1つの特徴、パラレルワールドにおいてこのタブーを配置しなかったのはなぜなのだろうか。それはこれらのタブーが法において「裁かれない」、あるいは「法-外」の位置にあるという檜垣さんの論法が一つのヒントになると思う。このゲームにおいて、パラレルワールドは横軸が時間、縦軸がある行為の選択として表現される。ある時点Aにおいて行為Bを選べば上に、行為Cを選べば下に行くことになる。行為Bは時間を経て結果Xに至るが、行為Cの結果はYに至るとする。このゲームは時点Aの段階でアイテムを使って目印をつけておき、結果Xを経験したのちに時点Aに戻り、行為Cも選べるようになる…というのがキーになるのだが(全然うまく説明できていないな)、これを繰り返すと枝分かれがたくさんある(トーナメント表のような)図ができることになる。しかしこれはベルクソンが『意識に直接与えられたものについての試論』で自由を論じる際、「こう考えてはいけない」例として挙げた図を少し複雑化しただけのものに過ぎないとも解することが可能である*23。なぜこう考えてはいけないのか。それはわれわれが常に動く時間の中で、しかもその時間が常にわれわれに影響を与え、変化させていることを無視し、図という無時間的な空間的象徴において自由を考えさせるからである。自由とは異なるが、2つのタブーはある行為の対象が問題になるのであり、行為自体は「連続した事例」*24なのであるならば、やはりある時点においてもその連続性を分けることはできないのではないか。要するに、法的な意味においても、時間と空間において生きる存在という意味においても、この2つのタブーは「さばけない」のではないか。*25そのことを作者である菅野ひろゆきさんは意識的にであれ、無意識的にであれ、理解していたのではないだろうか*26

*1:ちなみに檜垣さんは『ベルクソンの哲学』や『ベルクソニズム』を書いている人でもある

*2:しかし「ラーメンやらカレー好きが高じて…」は御自身のことでは…

*3:6頁。

*4:23頁。

*5:27頁

*6:67頁

*7:62-67頁

*8:檜垣さんはPちゃんについて先生が正しく無責任であったことを指摘している(118頁)。

*9:「だから賭けそのものに悪はない…それは自然の中の無垢ではないか。自然の中の無責任ではないか。」(『賭博…』152頁)

*10:とはいえ、「「焼いたもの」の価値は「量」である。…そして、「腐敗したもの」の価値は「質」である」(164頁)というのもよくわかる。ちなみに僕の頭に浮かんだのは桂雀三郎withまんぷくブラザーズ『ヨーデル食べ放題』だった。「焼」肉の食べ放題を歌いつつ「ビール」(=腐敗)は別料金(=異なるシステム)なんて、よく言い当てていると思う。

*11:しかしそう考えると、「牛角」は炭火焼だし、食べ放題で量が食べれるし…となってしまうが。

*12:59頁。一部をパラフレーズ

*13:122頁。

*14:僕は『SIREN』(SCEIPS2、2003)から知った。

*15:183頁、193頁

*16:文庫版、第5巻。

*17:184頁

*18:184頁

*19:死者側の社会は彼女に生者が逃げないよう見張りをさせていた

*20:その意味でそれを「人間的形態が極限にまで達したもの」(180頁)と言っていいのか。これは小説という思考実験方法と哲学という思考実験方法の境目の問いであるように思われる。

*21:余談。この観点から言えば『屍鬼』のコミカライズが最初期の『WORLDS』から最近の『封神演義』まで「そういう」シーンを描いていた藤崎竜さんによってなされたことはよくわかる。

*22:手元にないので不正確だが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)において片方は指摘されていたが、もう片方は指摘されていなかったのではなかったか。

*23:合田正人さん・平井靖史さん訳のちくま学芸文庫版だと197頁。

*24:53頁。なお、ベルクソンは図=空間化できない流れとしての時間のことを「持続」と名付けている。

*25:裁けない=処罰できない、捌けない=分けられない。しかもこの2つのさばきはおそらくは「混ざる」ことになり、ますます「さばけなく」なる。

*26:それは彼がなぜアダムとイブにこだわったのかという問いにもかかわることになると思われる。全てが自分たちの子どもであるとすることはこれらのタブーを完全に(無化)することでもあるからだ。

西村ユミ+村上靖彦「現象学の看護論的展開」、『現代思想』2014年1月号所収。

こちらは、実は他の論文等目当てで買ったのだけれども、この対談は面白かった。特に現象学創始者であるフッサールについて、「[村上さん]また、私自身がずっと考えていることは、現象学は逆に他者の経験についてしかできないのではないかということですフッサールのやっていたことは非常に特殊なことで、他の誰にも真似はできないと思うのです。というのは、自分自身をあたかも他者の経験であるかのようにビデオカメラで撮って、自分の頭の中で上映して観る、という捜査だったからです。彼は自分自身を客観視して実況中継する方法を獲得することができたので、このような方法ができたのでしょう。」*1とおっしゃっているところで、何かが自分のなかで吹っ切れたのを感じることができた。人の言うことや為すこと(または言うことをもって為すこと)をそのまま受け止めてその中身を分析していく。要するに「この人は何を言いたいのか(したいのか)」という問いの形で物事を考えることは志向性をまとった分析にならざるを得ず、それは十分現象学的であるということなのかもしれない。ただ、フッサールのやってきたことが真似できないからとして、そのまま放置してよい問題なのか、という疑問は残る。それは私が人の意見を本当に「そのまま」に受け取っているのか、ということに対して、あるヒントを残してくれているような気がするからだ。村上さんの言われる「超越論的テレパシー」、フッサールの他者分析のキーワードである感情移入の英語「エンパシー」、そしておそらくは「シンパシー」を加えた「パトロジー」とでもいうべき領野が開けてきているのではないだろうか*2

*1:202頁。

*2:勝手な思い付きだが、この思いつきにはシンパシーとエンパシーの違いについて触れているある人の論文(あまりにもその人に対して失礼なほど雑に読んでいるので出典は書かない)に啓発されたことを付け加えておく。

松下圭一『ロック『市民政府論』を読む』、岩波現代文庫、2014。

まず、本書を読むときの注意点を。
もともとは1987年に出た本の文庫化であるのだが、当時は『市民政府論』が岩波文庫から出ていた(鵜飼信成訳)。現在はそのいわば前篇を含めて訳された『完訳 統治二論』(加藤節訳)に差し替えられており、『市民政府論』はその後半部分に当たる(もっとも、後半部分のみを訳した『市民政府論』(という邦題)は光文社古典新訳文庫版(角田安正訳)に採用されている)。

もう一つは題名の「読む」は「読み込む」と言う意味での「読む」であること、つまり、ロックの『市民政府論』を一度は通読しておく必要があると思われることである。現在の日本のおかれている政治の状況との比較、ロック思想内部(『人間知性論』や『教育に関する考察』など)の比較にページ数が割かれているため、そもそもロックの本がどういうものなのか、ということを知りたい人は、まず元の本にあたるべきだと思う。

僕自身に関して言えば、もっとテキストを読みこんでいくようなものを期待してはいたのだが、それでも、例えば「諸個人」が形成する「社会」と「政府」という3つのレベルのみを想定し、「そこでは、論理的対極つまり個人と国家、社会と政府の間の《中間項》はすべて否定され」ていた*1というところなどは面白く読めた。確かにそう読んだ方がロックの読み方としては正しい。しかし、ロックの使い方を考える際には(著者も指摘しているように)、現在はその《中間項》こそが大きな問題となっていることを見過ごすわけにはいかないように思う*2。著者はこれを「近代」の成立と絡めて論じているが、では「現代」、あるいは「ポスト近代」、もしかしたら著者が日本社会に対して下している診断通り「近代にすらなっていない時代」においてはどのような社会(対政治形態?)をとればよいのか。少なくとも問題はそこまで煮詰まってきている、ということがよくわかる本だと思う。

*1:本書114頁。

*2:古くはデュルケームの『社会分業論』、『自殺論』を読めば、あまりにも巨大化、多様化してしまった社会においてはその帰属意識を保つことは困難であることがわかるし、ロックの市民政府論も大いに参照されているノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』では好きな中間項に所属することができる社会こそがメタ・ユートピアとしてのユートピアであることが示唆されていた。正直、ロックの焼き直しとしてノージックを見ていたところもあったけれども、本書を読むことで、ノージックは何気に結構な飛躍を行っていることに気づかされた。

近藤和敬『数学的経験の哲学』― 一経験論者として ―

本書はカヴァイエスの「数学的経験」なる概念を導きの糸として、これまでの哲学、特に真理概念についての批評を行い、新たな哲学、真理を作り出そうとしている本である*1。本書はこれまで常識ともいえる哲学の概念群(の一部)がいかに近視眼的なものであったかを明らかにしている。

これまでの経験概念は、端的に一つの出来事(とそれを成立させている真理)に対してのみ有効であった。僕がロックから読み取った(と思う)ことからすれば、人は「白紙」に経験したことを書きつけてゆく。そしてその書きつけ方(言語の問題)がうまくいけば正しいこと(真理)に到達できる、そういうことになる。いわば従来の経験概念はスタート地点とゴール地点が決まっており、それを反省によって吟味していく、そういうコースをたどっていたように思われる。

これに対し、筆者の提唱する「数学的経験」は全てが中継地点(あるいは本書の用語法に従えば振る舞いの過程、といってもよいかもしれない)という考え方になる。あるのはこれまでに書きつけられた紙の束、今書きつけられている紙と筆記用具、そして尽きることのない白紙の束、というわけである。ここでは(常識では当たり前だが)経験によって知ったことが新たな経験を要請するし、新たな経験によって、これまでの経験が違った意味を持つこともありうる。ということは正しいこと(真理)は書く、ということによってのみ生み出されることを含意している*2。これまでの経験概念は「何かのため」という感じがあるのに対し、この新たな経験概念は、より経験の中身に即した経験概念であるということができるのではないだろうか。経験論者として見れば、痛恨の一指摘である。

さて、ここまでで「数学的経験」なるものの新しさは何とかわかった。では、その新しさはほかの概念をどう新しくするのだろうか。数学的経験なる概念が概念の刷新を中身としている概念である以上、この問いに応えられなければ、数学的概念の中身が充実したということにはならないだろう。筆者は『カヴァイエス研究』をはじめ、この数学的経験についてはさまざまな論文で考察、発表を行っているが、本書以前はこの数学的経験の中身については、カヴァイエス哲学の体系内部でしか充実は図られていなかったようであるが*3、本書の重要な点はそれをある程度他の哲学分野にも適用していることにその意義があるように思われる。

フーコーが「人間の終焉」について語った時、おそらく大半の人々は同時に「主体の終焉」をもそこに読みこんでしまったのではないだろうか(かくいう僕もその一人であり、その疑問は常に抱いているが)。なぜなら主体というのは自ら(を)考えることができるものであり、そのようなことができる(ことが確認される)のは人間だけであったからだ。しかもこの問題は後期フーコーが主体の問題を改めて取り上げる時に再び混乱する。つまりこのことは1.フーコーが晩年(彼も割と早くに亡くなったので晩年、という言葉を使うことに違和感はあるが)考えを変えたのか、あるいは2.そもそもフーコーは「人間」=「主体」とは考えていなかったのか、そのどちらかであったことを意味している。

本書においては後者の仮説にしたがっての論述がなされているように思われる。しかし、状況はもう少し込み入っているようである。まず、筆者はアルチュセールラカンに拠りながら「主体」と「わたし」を分離する。ここで重要な点は二点ある。一つは、「主体」が「わたし」であることは必ずしもないということであり、もう一つは、これにより「主体」が客体化される、というと変だが、問題を解くという出来事の一配役としてとらえることができることである(「主人」公は解く者から解くモノへと移る)。そして、これまでの「わたし」が問題が解けている地点からの「解-主体」であったこと、それ以外の主体として問題を解く過程としての主体である「問題-主体」があることを本書は提示する。

ここでの議論の進め方に対して、僕の立場は両義的である。まずは賛成的方面から。「問題-主体」という考え方については、その豊富な実例とともに、かなりイメージしやすいものとなっている。解けるか、解けないかそれさえもわからない。しかし、問いによる考えは始まっている。ベルクソンが問うことそれ自体を問題にしたのに対し、そこから解かれる(ことがあるとすれば、だが)までの過程を「問題-主体」の概念およびその実例は見事に示しているように思う。一方、「主体」と「わたし」の問題を(「問題-主体」を明らかにするという意図があるとはいえ)虚偽意識、とまで言っていいのかということについては疑問なしとしない。単純に「問題-主体」としての「わたし」はあり得ないのだろうか。アルチュセール(とここで参照されているジロ)はイデオロギーとして、結果としての振る舞いを措定している。あくまで主観は「フィードバック」「バグ」の主観でしかないように見えてしまう(「パッチ」は概念の発展において当てられる)。一方、カヴァイエスの数学的経験においては、「ふるまい」概念が主観を要請している。真理は大雑把にいって理念化、一般化を通して生成をなすが、そのためにはふるまう何者かが必要になる。ここの違いは小さなものなのだろうか。そして、ふるまうために応召されるのが「わたし」であったとしたなら?

ともかく、今は本書の流れにそうことにする。「問題-主体」をなりたたせているものとしての記号論、「記号的宇宙」からさらにそれをなりたたせる「自然」への考察。僕としてはこのあたりは一気に通読するべき箇所であろうと考える。それはここまでこの経験された常識とは相容れないように思われる考察群(ジェットコースターの上り坂に当たる)の、最後のシメ(こっちは下り坂ね)だからである。ここでは従来の生命に変わり、新たな「有魂/無魂」の区別が導入される。しかしここでも概念/記号の展開においてのみその区別は有効であること、そこで記号的宇宙の調和性が必ずしも世界の調和性ではない海の子についての論述でこの本は閉じられることになる。僕はこのあたりの論述にジェームズの多元的宇宙を垣間見るが、これまでの豊かな論述がその中身をより充実させている。欲を言えば、暴力的な自然もまた必要であろうかと思う。乱暴な想定ではあるが、人のいない自然でも有魂/無魂の自然を論じ切れるか。まあこれはハッピーエンドの映画に無理やりバッドエンドを期待するようなひねくれた態度でもありそうなので、あまり言わないでおこうと思う。

ここからは、僕から筆者への疑問等になる。これらは、一言で言うと僕が経験論者であることに由来する。が、これは筆者に経験論者になるようにということを含意してはいない。どちらかと言えば、「思考の暗がりのなかを彷徨い歩」*4こうとする筆者への、ささやかな観光案内のパンフレットのようなものであれば、と思う。

経験論者として、ヒュームとジェームズはそれぞれに重要な著述家であるが、本書における二人の扱いは少々寂しいものがある。ジェームズはその経験論のラディカルさが評されてはいるものの、結局のところは「そのような経験概念を分析可能にする領域が心理学であると考えていたように」*5筆者には見えており、その注釈にはジェームズはフッサールベルクソンと同じ「心理学を哲学的方法のなかにとり込もうとした」*6哲学者であると見なされている。

筆者の言う「心理学」というものがどういうものなのかは本書で詳しく述べられているわけではないため、僕が筆者の言う「心理学」の外延を正しく理解しているかどうかはわからない。ただ、ジェームズが心理学研究から出発したことは事実である。しかし、その彼が根本的経験論を論ずるに当たって、最初に書いた論文の題名が「意識は実在するか」という修辞疑問文の形をとった題名であったことをまずは抑えておく必要はあるだろう。その上で、ジェームズの後期哲学(いわゆる『心理学原理』や『信ずる意志』ではない)だけに目を向けた場合*7、「プラグマティズム」、「根本的経験論」、「多元的宇宙論」は密接に関連している、と考えた方がよいように思われる。『プラグマティズム』でジェームズはプラグマティズムについて、根本的経験論抜きでも理解可能である旨を述べているが、少なくともジェームズ個人に限ってみればプラグマティズムという考えを生かそうと思えば、これまでの経験論がプラグマティズムに合わず、必然的に根本的経験論という新たな経験論が必要であったのではないか。つまり、ある経験が各要素に分解できるという考え*8では、プラグマティズムにおいて真とされるあらゆる状況に対応できない。そうではなく、経験から真理が導き出されなければならない、もっといえば真理は経験に従属しているのであり、経験を真理に適合するように各要素に分解するなどといったもったいないことはできないのであり、そんなもったいないことをするような働きをする「意識」というものなどは不要なのである。また、そのような経験および真理は経験のたびに生み出されることになる。その真理体系=宇宙観を可能にするのが多元的宇宙論ではなかったのだろうか。こう考えた場合、ジェームズの哲学が「経験概念を分析可能にする領域が心理学であると考えていた」かどうかは、少なくとも僕の考える心理学の範疇では疑わしいように思える。むしろ「根本的経験論」の問題点はそこから一気に飛躍して「多元的宇宙論」に至る、(最初に書いたように)1回の経験でまるで全てが分かるように述べている、その近視眼的な経験概念のとらえ方にあるのではないだろうか。

ヒュームの名については、本書で一回限りの引用となっている*9。しかしながら、「わたしが「神なしの知性」を求めると言ったときには、すでにそれと同時に「人間なしの知性」を求めることをも意味していた」*10ことを問題意識とする本書とのかかわりを想起した時、ドゥルーズニーチェに勝るとも劣らずにヒュームは神、人、知性のかかわりについて問うたのではなかったのだろうか*11。神についてははっきりと神のいない知性を問い、人と知性の関わりに対しては「そんなことを言ったってさ…」「諸君は嘘をついている」*12と言ったのがヒュームではなかっただろうか。もちろん、そのような知性が神や人の知性でしかないことをわかった上で「学者とかになってもいいけど、人であることを忘れてはいけない」(『人間知性研究』)と言ったヒュームは、最終的な地点において筆者の立場と袂を分かつ。しかしながら、従来の経験概念のみをもって、神、人、知性の問題にまで踏み込めるということは、経験概念を思考するうえで重要な手掛かりを提供してくれているとは言えないだろうか。

「経験」概念と「数学的経験」概念の連続性
2人の著述家をもとにいろいろと書いてきたわけだが、結局のところ僕は数学的経験の概念と経験の概念、この2つの概念の連続性が知りたいのだ。そしてこれはカヴァイエスが遺した課題ともいえる。なぜなら彼は「この経験は習慣的に経験と呼ばれているものと関係があるだろうか?(…)とりわけ、物理的経験は、たくさんの異質な要素の複合物であるように思われる。物理的経験について私は今はなにも言わないでおこうと思う」と書いているのだから*13。そして、この観光案内を書こうとしたのは、数学的経験が従来の経験概念と関係を持つにせよ持たないにせよ、そのことをはっきりさせなければいけないと僕が感じているからであろう。この点において、筆者の立場はあまり明確になっていないように思われる。例えば、本書のあとがきでは数学的経験論と(ドゥルーズの、ではあるが)経験論の近さを示そうとしている*14。一方、本書以後の(架空)鼎談において、筆者は、経験概念の検討は「「記述」に関して独特の内在主義を展開することに成功しているように思われる一部の人類学者の仕事」に比較すればさほど重要視されていないように思われる*15。ただ、数学的経験がどのように発生したかを考えた場合、これまでの経験概念の検討を行うことは(直接には関係しないかもしれないけれども)、数学的経験の概念の中身からして必須であるようにも思われるのである。

最後に2つの例題を示すことにする。

本書を読むと、改めて貨幣という記号システムの不思議さに感嘆することになる。まず、貨幣は本書の言う「投機性」を備えている。しかし、その「投機性」は商品、他の貨幣システム(外貨)などを通じてのものである。また、貨幣は参加しなければ使えない(「働かざる者食うべからず」)。要するに、貨幣という記号システムは本書の言う「他者-構造」により自己増大し、流通している。依存している、といってもいいかもしれない。ここに「非の潜在力」が働く余地はあるのだろうか。個人的には何もしないこと(あるいは、自給自足でもよいが)ができるのはどこか、ということを考えた場合、「家」というものが重要であるように思われる。ただ、この場合、わざわざ家から抜け出して「できればしたくないのですが」とバートルビーが言っていることの意味がそこから抜け落ちてしまう。家というものがあまりにこれまで当たり前すぎたため、家の抽象的イメージができない、ということはある。また、家自体が貨幣システムのなかに巻き込まれる、というのも事実だ(住宅ローンの問題はサブプライムローンだけではない)。だが、それでも、貨幣システムにおいて、他者-構造を必須としない「場所」、空間を考える際、家を抽象的に考えることは必要不可欠なのではないだろうか*16

神なしの知性はわかった。しかし、有魂/無魂の区別を導入することで、知性と切り離された信仰の問題は未だ残る。では、信仰ぬきの知識は成立するのか。これまでの知識論は信念抜きの知など認めないだろう。しかし、そのことは知識論を刷新しようとする本書の意図からすればさほど意味は持たない。だが、信仰はいつまでも残るだろうし、それ抜きで知が自己展開するのだろうか。もしかしたら、知それ自身が信仰の契機を持っているのではないだろうか。これは一気に「海の子」までの画を描き切った本書にこそ許される問いであるとは思う。というよりも、問題群をより豊かに(もっと有り体にいえば問題をわざわざややこしくしている感もあるけれども)することで宇宙の中の世界を豊かにしているのが本書の長所でもあるだけに、最初の問題がまた形を変えて戻ってきているようにも思える。ヒュームのところでも述べたが、経験論は神学的要素を組み替えてきたこともその功績の一つである(ロック『統治二論』前篇など)。自然を信じたとして、ではその自然が神のかぶった仮面ではないと、あるいは自然を仮面にしてなにかにかぶせはしないか(想定外の災害、とかね)と、それくらいの憂慮は許されるものと思う。

*1:このため、本書を同筆者の前著『カヴァイエス研究』の続編として位置づけることも可能であろう。

*2:注意。紙の束は真理ではなく、これまで生み出されてきた真理の集積所である。これまた常識では当たり前だが、正しいことの集積は、正しいこととして機能するが、それはこれまで正しかったというかぎりのことである

*3:ここで大急ぎで補足を。まず、カヴァイエス哲学はカヴァイエス本人の夭折により本質的には未完成である。カヴァイエスの後継者ともいえるフランス科学認識論者(エピステモローグ)により復元が試みられてはいるものの、その復元が妥当なものであるのかどうかはまた吟味を要する。すなわち、数学的経験の中身を充実させるためには(1)カヴァイエス哲学そのものを吟味し(『カヴァイエス研究』)、そのうえで数学的経験の充実を(本書以前の諸論文。もちろんカヴァイエス哲学との整合性をとりながら)図らなければいけなかったのである

*4:p408。

*5:p19。

*6:p410。

*7:このため、ジェームズ哲学全体を見ればその分析対象領域が心理学であると見えてもいたしかたないように思える。しかし、筆者は「根本的経験論」のジェームズをベースにコメントしているので、このまま話を進めることにする。

*8:なお、本書p115も参照。「通常の経験という語によって認められるような、任意に与えられた純粋な与件の集まり…」

*9:p346

*10:p16

*11:ドゥルーズがヒューム論(『経験論と主体性』、『ヒューム』)も書いている、ということを指摘するのは釈迦に説法であるだろうが

*12:小泉義之、千葉雅也「思弁的展開とポスト思考の哲学」『現代思想』2013年1月号、pp130-132

*13:カヴァイエス『数学的思考』、p99より孫引き。

*14:p434

*15:「「破局」の「全体性」の只中で思考しつづけるために」、篠原雅武、村澤真保呂との共著、『現代思想』2013年1月号、pp.80-100。「架空」と書いたわけはこのテキストの最初に筆者自身が述べている。

*16:なお、前掲「「破局」の…」で村澤さん、篠原さんが提起している問いともいえる

眠りについて

眠ることに対する哲学的考察がないのは何故か。従来の考察は夢、不眠、そのようなもので代替しているに過ぎないのではないか。デカルトは夢が欺きの感覚を与えることを指摘したが、まだこのように暗に「眠りは理性的ではない」と主張するほうがましのようにも思える。眠っている間通常の意味で理性を働かせていないのは確かであるからだ。フロイトが夢の意義を主張したところから夢は理性、(無)意識の側に立ちつつある。考えない行為としての眠りを考える、難しいことかもしれないが、逆に考えないことの意義を考えるのであれば、眠りについて考えることは必要なのではないか。

船頭多くして船が山に登っちゃったらそれはそれで面白い、という話。

「藤村くんねぇ やっぱりねぇ こんなテレビ見たことないぞ」
〜『水曜どうでしょう』2011年最新作 第五夜より〜

というわけで、『水曜どうでしょう』を観ているのだが、確かにこの番組は他の番組にはない*1面白さがあるように思う。では、その面白さは一体どこにあるのか。今回は一私見を記しておくことにする。

番組の企画として見た場合、『水曜どうでしょう』のようにタレントが多分に運任せの旅を行う、というものはそう珍しいものではない。『電波少年』から『クワンガクッ』、『ノブナガ』など、さまざまな番組で同種の企画は行われていたし、またそれぞれが一定の人気を博したことは間違いない*2。そこではタレントが最低限のスタッフ(ディレクター、カメラマン)と一緒に旅をする、そのパーティー構成もほとんど変わらない。ただ、『水曜どうでしょう』の場合、出演者の一人である鈴井貴之さんが、番組の企画及び出演者の事務所社長である。他の番組では出演者は出演者としての役割しかないことがほとんどであるのに対し、企画やスケジュール調整の鍵を握る人物が出演者としているということは、裏方としてのスタッフが出演もこなしていることでもある。まずは、ここが他の番組との違いであるだろう。ただ、企画者と出演者が同一というだけなら、またこれもそれほど珍しい特徴ではない。ここで、もう一つの特徴である、ディレクターである藤村忠寿さん*3が、相当の割合で映像内の会話に入ってきていることが生きてくることになる。特に中期以降、「映像的にはミスター(=鈴井さん)と大泉さん」「音声(トーク)的には藤村さんと大泉さん」という図式がかなり前面に押し出されてきており*4、ここが『水曜どうでしょう』の特色といえ、ここに面白さの一因があるものと考える。

では、なぜこの図式が面白さを生み出すのか。それは、(1)同種の企画でもあった出演者/裏方という図式が可感覚化されたこと、および(2)その図式が『水曜どうでしょう』ではいわば重層化されていることにあるのではないか。

従来の裏方は出演者ではないことから、その存在はカメラの前からはできるだけなくしていく方向にあった*5。それが、『水曜どうでしょう』では企画者(=鈴井さん)が「しゃべらない出演者」となることで、裏方的なポジションを「見せる」ことに成功した(=可視化)。同時に、藤村さんがトークに入ってくることで「しゃべる裏方」、こちらは裏方的なポジションを「聴かせる」ことに成功した(=可聴化)。先に僕が「可感覚化」と書かなければいけなかったのはこれらの事態を指す。そして、それぞれが裏方として出演者を演出する役割を引き受けている、このことが、同じく先に書いた「図式の重層化」である。

では、この重層化された「どうでしょう図式」は、番組でどう生かされているのだろうか。一つには、唯一「出演者」のみの役割を与えられた大泉洋さんに対してのものだろう。最初の企画である「サイコロの旅1」から、彼だけが企画の内容を知らされないという役割を与えられているのはまさに出演者(=裏方ではない)であり、結果視聴者としての僕たちは「理不尽なルールに振り回される大泉洋という出演者」を見ること(そして笑うこと)ができる。しかしこれが旅の途中になると、大泉さんは企画(兼所属事務所の社長)である鈴井さんの言うことも聞き、かつ番組のディレクターである藤村さんの言うことも聞かなければいけないことになるのだ*6。つまり大泉さんは出演者の持つ「企画を進行させなければいけない」受身の立場を2倍演じなければいけないことになる。これが他の番組と違う、会話や企画進行のテンポの速さを生んでいるのではないか*7

第二点は出演している企画者としての役割を与えられた鈴井さん、藤村さんに対してのものである。上述したように、出演者である大泉さんは徹底した受身の役割を背負わされており、結果、企画の段階で何かをしようとするときはこの2人が企画を始めなければいけないようになってしまった。その最たる例が「対決列島」であろう。ここでは出演者である大泉さんはむしろ進行に徹さざるを得ず、実質的な主役はディレクターであるはず(!)の藤村さんと企画を決められるはずの(!!)鈴井さんであり、2人の対決が企画のメインとなっている(そしてこの企画の一部は最新作にも生かされることになる)。また、可感覚化された2人にはもう一つ、「失敗がさらされる」という役割がついてまわることになる。従来の裏方は出演しない、出演しないということは視聴者側には彼らの失敗もまた視聴することができない、ということである。これに対し、『水曜どうでしょう』では、鈴井さんは視覚的な、藤村さんは言動的なという限定があるにせよ、失敗した場合、それが放送されてしまうことになる。まず、それだけでも面白い。言って見れば企画を演出している2人(のどちらか)が失敗した場合、それにより、番組の進行そのものを笑うことができる。また、片方の失敗にもう片方(と大泉さん)がツッコミを入れることで、その面白さは倍加することになる*8

以上、簡単ではあるが『水曜どうでしょう』の面白さを僕なりに考えてみた。しかしながら、これは少なくともこの番組の面白さの一側面を表わすものでしかなく、何より4人のチームワーク、信頼がその面白さの大前提にあるように思う。だから、最新作を作り終えた4人に言うことではないのかもしれないが、あの独特の雰囲気を再度新しく(というと変な表現だが)味わうため、また、旅に出てほしい。一ファンの痛切な願いとともに、この文章を締めようと思う。トコトン(←腹太鼓)。

*1:ただし、これを「新しい」と評することには慎重でなければいけない。『Quick Japan』の嬉野雅道さんへのインタビューや鈴井貴之さんの『ダメダメ人間』にあるように、時代々々で変わらないことをやっているだけ(=だから、古くはならない)かもしれないのだ。

*2:今でも『世界の果てまでイッテQ』みたいなのが出ている

*3:時には嬉野雅道さん

*4:鈴井さんがあまりしゃべらなくなってきたこともある。

*5:その起源はどこか、といえば『電波少年』の土屋プロデューサーにあったのではないか。彼は顔を見せず、必要最低限の企画説明のみを行う役回りとしての出演をしていた。このテレビとしての演出が、逆に裏方の存在は隠さなければいけない方向に演出を向かわせたのではないか

*6:代表的なものとして「アメリカ横断」編のホットスプリング事件を挙げておく。

*7:もちろん、これは番組が進むごとに発揮された大泉さんの抜群の切り返し力がなければ必要不可欠であったことも付け加えておこう。その意味で大泉さんを「大抜擢」(『水曜どうでしょうclassic』第一回放送)したスタッフは正しかったことになる

*8:『サイコロの旅1』で既にされているディレクターの船酔いや鼻血に対するツッコミ、『アメリカ横断』の有名なインキー事件を参照。

ロック続き

前回書いたときは、友人の言葉に引きずられているところがあった。それは「自然に真理が内在していること」は大きな変化ではあるが、決して断絶的にロックは書いていないということだ。正確には、断絶的に認識論的には転回したが、彼は神学的な序論を書くことを忘れなかった、というべきだろう。『人間知性論』では最初に生得原理を、『統治二論』では王権神授説を徹底的に批判することで*1「神がどのように人を作ったのか。それは自由を与えることでより深い生を送れるようにするためであり、神自身のような万能性をそのまま人には授けてはいない。むしろ、そのように振舞うことは人としての成長を止めることであり、それは神が人を作った目的、意志に背くことだ」というメッセージを残した。もちろん、ロック自身の政治的な立場も込みで考える必要はあるが、大事なのは、認識論の転回は(副次的かもしれないけれど)神学的な観点をも転回させているということではないだろうか。

ロックはちょっとずつ読んでいるが、面白い。単純観念の作り方はむしろジェイムズの根本的経験論とも通ずる気がする。ただし、ジェイムズは決して単純観念からの構築により複合観念を作るとは言わないだろう。というか、経験があって、そこから意味を汲み取りながら観念化していくというルートだけで(つまり複合観念も(事後的に単純観念から構築できることがわかるにしろ)経験から直接に作られるとして)いけるような気がする。ただ、その際にはどうやって観念化していくか、その道筋が重要になってくる。おそらく、ジェイムズはその問題をプラグマティックに解決したのではないだろうか。

*1:余談ながら、ロックの批判は理論的だがどこか饒舌めいたところがあるので読みやすい。