檜垣立哉『食べることの哲学』(世界思想社、2018)

先日の休みに通読。今僕はベルクソンの本を(『意識に直接与えられたものについての試論』に続き『物質と記憶』)を読んでいるのだが、同じくらいいろいろなことに気づかされたり、考えさせられたりした読書だった*1。ということでこちらの本についてもいくつか気づいたことを書てみようと思う。

森枝卓士さんはこの本を評するにあたり、「競馬好きが高じて、賭博をネタにした本を書いてしまった哲学者」が書いた本として読み始めているが、そのように読んだ結果「競馬と違って、『好きで好きでたまらない』という感じじゃないね。(中略)『狂気』はない。」と、肩透かしを食わされたことを隠していない*2。僕はこの意見に賛同する。それは『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008)はまさにそのような本だったからであり、それを『食べることの哲学』に投影すればそのような感想は十分出てくるものと思われるからだ。
ただ、僕はここで2つの論点を付け加えたい。
1つは、檜垣さんが書いているのはこの2冊だけではないということだ。『食べることの哲学』に戻って考えてみる。檜垣さんは食べることを「われわれは何かを殺して食べている。」*3と喝破している。そして、料理には(レヴィ=ストロースに従い、ある程度単純化しながらも)様々な技法があることを指摘し*4、それは自然と文化の矛盾を統合するものとして描かれている*5。とするならば。つまり、食べることを命と技術の組み合わせとして捕えているのであれば、参照すべきは『賭博/偶然の哲学』ではなく、『ヴィータ・テクニカ』(青土社、2012)ではないだろうか。檜垣さんが第二章の最後でアンパンマンから「遠く離れてしまったかも」*6と書きつつも臓器移植、iPS細胞を論じたということは、そういうことだと思う*7
もう1つは、もし『賭博…』との共通点を探るなら、それは「無責任」ということだと思う。ただ、それが主題化されるのは『食べること…』においては豚のPちゃんの話(第四章)である*8し、『賭博…』においても第三章の最後の方である*9。しかも檜垣さんは(両方の著作において)倫理的に無責任を考えようとしている。わからない。難しい話であることしかわからない。

ここからは疑問点。アメリカ=イギリス=アングロサクソンの料理を焼いたもの=量の文化とし、「生-政治」ならぬ「食-政治」を書こうとしていることについて。僕はアメリカやイギリスの政治には確かに共通点があるように思える。雑に言えば、片方はTPPから、片方はEUから離脱したばかりだし、そこに至る手法も何となく似ているようにも見えるし。でも、そこにどうしても2点、疑問を抱いてしまう。
まず、料理について。既に159頁においてフライドポテトを「境界例」としてしまっているのもそうだけれど、焼くということについて少し考えてみたい*10。先に「われわれは何かを殺して食べている。」という文章を引用したが、そこでは「実際には塩分やミネラルを除き」、という言葉が前についている。つまり本書において食べることとは、おおむね、生命が有機体であることが前提されていると言えるのではないか。このことは重要である。なぜなら、それは「焼きすぎると炭になる」ことでもあるからだ。そして炭-生(なま)までをバリエーションとした場合、焼くことを単純に量として考えてよいのかとついつい考えてしまうのである。食べられるように焼くためには完全に炭になってはいけない。けれども、その範囲であれば人はその炭さえも利用する。ごはんの「おこげ」、寿司ネタによくある「あぶり」、コーヒーの「焙煎」。生の方に近くなれば、ステーキの「レア」、かつおの「たたき」。さらに言えば先ほど除いた炭だって、燃料として食べている、ともいえる*11。要するに、僕はどうしても焼いたものということに関して、単純に「量」としてとらえることができないのだ。
もう1つは、「アメリカ」で医者が医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためにでっち上げられたはず*12の「生命倫理」の学者であるはずの森岡正博さんがなぜウナ子の(まるで『富江』のような)不気味さについて、同じような感想を抱く*13のだろうか。同じものの反復と大量生産は表裏一体であるが、「量」があればよいアメリカ式思考(の発明である生命倫理)において、なぜ同「質」性の不気味さが感じ取られるのか。

最後はサブカルチャーについて。あとがきにおいて、学生からは『銀の匙』(荒川弘)を進められることが多いとのことで、他の参照作品としては『進撃の巨人』(諫山創)、『東京喰種』(石田スイ)が挙げられている。僕としては2作品をあげることで感想に代えたいと思う。以下、ネタバレを含むので注意してほしい。
1つ目は小野不由美さんの『屍鬼*14。死んだものがよみがえり生きている人を襲うようになる、というよくあるホラー話ではあるが、舞台が日本の村(区域整理で現在は正確には村ではないところなんてリアルすぎる)となることで、顔見知りが人外のものとなる、あるいは顔見知りが自分の食料となる(よみがえった死者は人格的には連続している)という状況が生まれる。そして小説は人物(生者/死者を問わず)の一人一人を丁寧に描くスタイルをとっており、独特の世界観が築かれている。ここで僕が注目するのは国広律子という登場人物だ。彼女は死者、生きている人を襲わなければ生きていけない側の登場人物である。『食べることの哲学』では食べることは何らかの形で自分と似ている(少なくとも、「生きている」という点で)生き物を殺して食べることとそこからの忌避、反転としての拒食が論じられているが*15、まさにその両者を体現する人物として彼女は描かれている。そしてさらに注目すべき点として、生者を逃がす場面で、小野さんは彼女に自分はエゴイストであると発言させているのである*16。これは檜垣さんの「(引用者注:ほかの生き物を殺す=食べることの)この忌避は、一面では限りなく自己を純化させる欲望なのではないか」*17という問いかけと通底するものである。というより、僕は最初『屍鬼』を読んだとき、なぜ律子が生者を襲わない自分をエゴイストと規定しているのかよくわからなかった。しかし『食べることの哲学』を読んだ今、それは「生物や動物性を持たない自分の部分を最大に際立たせようというおこない」*18であること、そしてそれはもしかしたら死者側の社会*19というある種の文化的形態からも自己を押し通すという意味でのエゴイストであることが理解できる*20*21
もう1つの作品は『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(エルフ、1996→mages./5pb.、2017)。この作品を挙げたのは本書の7頁以降何度も出てきている2つのタブー、その両方を描いてしまった作品であるからに他ならない*22。そしてそこで僕が気になるのはそのタブーの配置の仕方である。東さんが指摘しているように、このゲームは前半と後半で世界観が異なっている。前半は日常世界ではあるものの複数のパラレルワールドを行き来できるという設定、後半はいわゆる幻想的な世界ではあるがストーリーほぼ一本道という設定になっている。興味深いのは2つのタブーが後半の世界での出来事に配置されている、ということだ。日常的世界でタブーを描くよりも幻想的世界でタブーを描く方がフィクション性が増すという意味において、それは十分理解できる。ではもう1つの特徴、パラレルワールドにおいてこのタブーを配置しなかったのはなぜなのだろうか。それはこれらのタブーが法において「裁かれない」、あるいは「法-外」の位置にあるという檜垣さんの論法が一つのヒントになると思う。このゲームにおいて、パラレルワールドは横軸が時間、縦軸がある行為の選択として表現される。ある時点Aにおいて行為Bを選べば上に、行為Cを選べば下に行くことになる。行為Bは時間を経て結果Xに至るが、行為Cの結果はYに至るとする。このゲームは時点Aの段階でアイテムを使って目印をつけておき、結果Xを経験したのちに時点Aに戻り、行為Cも選べるようになる…というのがキーになるのだが(全然うまく説明できていないな)、これを繰り返すと枝分かれがたくさんある(トーナメント表のような)図ができることになる。しかしこれはベルクソンが『意識に直接与えられたものについての試論』で自由を論じる際、「こう考えてはいけない」例として挙げた図を少し複雑化しただけのものに過ぎないとも解することが可能である*23。なぜこう考えてはいけないのか。それはわれわれが常に動く時間の中で、しかもその時間が常にわれわれに影響を与え、変化させていることを無視し、図という無時間的な空間的象徴において自由を考えさせるからである。自由とは異なるが、2つのタブーはある行為の対象が問題になるのであり、行為自体は「連続した事例」*24なのであるならば、やはりある時点においてもその連続性を分けることはできないのではないか。要するに、法的な意味においても、時間と空間において生きる存在という意味においても、この2つのタブーは「さばけない」のではないか。*25そのことを作者である菅野ひろゆきさんは意識的にであれ、無意識的にであれ、理解していたのではないだろうか*26

*1:ちなみに檜垣さんは『ベルクソンの哲学』や『ベルクソニズム』を書いている人でもある

*2:しかし「ラーメンやらカレー好きが高じて…」は御自身のことでは…

*3:6頁。

*4:23頁。

*5:27頁

*6:67頁

*7:62-67頁

*8:檜垣さんはPちゃんについて先生が正しく無責任であったことを指摘している(118頁)。

*9:「だから賭けそのものに悪はない…それは自然の中の無垢ではないか。自然の中の無責任ではないか。」(『賭博…』152頁)

*10:とはいえ、「「焼いたもの」の価値は「量」である。…そして、「腐敗したもの」の価値は「質」である」(164頁)というのもよくわかる。ちなみに僕の頭に浮かんだのは桂雀三郎withまんぷくブラザーズ『ヨーデル食べ放題』だった。「焼」肉の食べ放題を歌いつつ「ビール」(=腐敗)は別料金(=異なるシステム)なんて、よく言い当てていると思う。

*11:しかしそう考えると、「牛角」は炭火焼だし、食べ放題で量が食べれるし…となってしまうが。

*12:59頁。一部をパラフレーズ

*13:122頁。

*14:僕は『SIREN』(SCEIPS2、2003)から知った。

*15:183頁、193頁

*16:文庫版、第5巻。

*17:184頁

*18:184頁

*19:死者側の社会は彼女に生者が逃げないよう見張りをさせていた

*20:その意味でそれを「人間的形態が極限にまで達したもの」(180頁)と言っていいのか。これは小説という思考実験方法と哲学という思考実験方法の境目の問いであるように思われる。

*21:余談。この観点から言えば『屍鬼』のコミカライズが最初期の『WORLDS』から最近の『封神演義』まで「そういう」シーンを描いていた藤崎竜さんによってなされたことはよくわかる。

*22:手元にないので不正確だが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)において片方は指摘されていたが、もう片方は指摘されていなかったのではなかったか。

*23:合田正人さん・平井靖史さん訳のちくま学芸文庫版だと197頁。

*24:53頁。なお、ベルクソンは図=空間化できない流れとしての時間のことを「持続」と名付けている。

*25:裁けない=処罰できない、捌けない=分けられない。しかもこの2つのさばきはおそらくは「混ざる」ことになり、ますます「さばけなく」なる。

*26:それは彼がなぜアダムとイブにこだわったのかという問いにもかかわることになると思われる。全てが自分たちの子どもであるとすることはこれらのタブーを完全に(無化)することでもあるからだ。