西村ユミ+村上靖彦「現象学の看護論的展開」、『現代思想』2014年1月号所収。

こちらは、実は他の論文等目当てで買ったのだけれども、この対談は面白かった。特に現象学創始者であるフッサールについて、「[村上さん]また、私自身がずっと考えていることは、現象学は逆に他者の経験についてしかできないのではないかということですフッサールのやっていたことは非常に特殊なことで、他の誰にも真似はできないと思うのです。というのは、自分自身をあたかも他者の経験であるかのようにビデオカメラで撮って、自分の頭の中で上映して観る、という捜査だったからです。彼は自分自身を客観視して実況中継する方法を獲得することができたので、このような方法ができたのでしょう。」*1とおっしゃっているところで、何かが自分のなかで吹っ切れたのを感じることができた。人の言うことや為すこと(または言うことをもって為すこと)をそのまま受け止めてその中身を分析していく。要するに「この人は何を言いたいのか(したいのか)」という問いの形で物事を考えることは志向性をまとった分析にならざるを得ず、それは十分現象学的であるということなのかもしれない。ただ、フッサールのやってきたことが真似できないからとして、そのまま放置してよい問題なのか、という疑問は残る。それは私が人の意見を本当に「そのまま」に受け取っているのか、ということに対して、あるヒントを残してくれているような気がするからだ。村上さんの言われる「超越論的テレパシー」、フッサールの他者分析のキーワードである感情移入の英語「エンパシー」、そしておそらくは「シンパシー」を加えた「パトロジー」とでもいうべき領野が開けてきているのではないだろうか*2

*1:202頁。

*2:勝手な思い付きだが、この思いつきにはシンパシーとエンパシーの違いについて触れているある人の論文(あまりにもその人に対して失礼なほど雑に読んでいるので出典は書かない)に啓発されたことを付け加えておく。