ロック続き

前回書いたときは、友人の言葉に引きずられているところがあった。それは「自然に真理が内在していること」は大きな変化ではあるが、決して断絶的にロックは書いていないということだ。正確には、断絶的に認識論的には転回したが、彼は神学的な序論を書くことを忘れなかった、というべきだろう。『人間知性論』では最初に生得原理を、『統治二論』では王権神授説を徹底的に批判することで*1「神がどのように人を作ったのか。それは自由を与えることでより深い生を送れるようにするためであり、神自身のような万能性をそのまま人には授けてはいない。むしろ、そのように振舞うことは人としての成長を止めることであり、それは神が人を作った目的、意志に背くことだ」というメッセージを残した。もちろん、ロック自身の政治的な立場も込みで考える必要はあるが、大事なのは、認識論の転回は(副次的かもしれないけれど)神学的な観点をも転回させているということではないだろうか。

ロックはちょっとずつ読んでいるが、面白い。単純観念の作り方はむしろジェイムズの根本的経験論とも通ずる気がする。ただし、ジェイムズは決して単純観念からの構築により複合観念を作るとは言わないだろう。というか、経験があって、そこから意味を汲み取りながら観念化していくというルートだけで(つまり複合観念も(事後的に単純観念から構築できることがわかるにしろ)経験から直接に作られるとして)いけるような気がする。ただ、その際にはどうやって観念化していくか、その道筋が重要になってくる。おそらく、ジェイムズはその問題をプラグマティックに解決したのではないだろうか。

*1:余談ながら、ロックの批判は理論的だがどこか饒舌めいたところがあるので読みやすい。