虎の尾を踏む1.超越論的経験論。大地と島。

メルロ=ポンティフッサール幾何学の起源』講義』ISBN:4588008153
の後に、
レヴィナスフッサール現象学の直観理論』ISBN:4588003577
を読む。本当であれば、順番が逆になっていたほうがよかったのかもしれないが、でも、彼らのフッサールハイデガーの読み方はとても参考になる。二人ともハイデガー存在論フッサール現象学が似ているけど違うものだということ、しかしそれはフッサール現象学にその根があるということ(メルロ=ポンティは『知覚の現象学ISBN:4622019337「矛盾はフッサール自身の哲学の中もういちど再現する」(みすず書房版邦訳p2)と書いている)、そしてその矛盾をハイデガーからフッサールを逆照射する形で論じていることは共通しているように思う。

メルロ=ポンティがとりあげているテキストの中での「コペルニクス説の転覆」は面白そうだけど、ギリギリにヤバイものでもある。大地という概念でフッサールは何を言いたかったのだろうか。超越論的経験論?『デカルト省察ISBN:4003364333この概念は、カントのtranscendentalを「先験的」と訳していたようには訳せない(先験的経験論となるから)。その意味でカントのtranscendentalに比べ少し意味が変わっているのかもしれない(邦訳を参照しているからそう読めるのかもしれないけど)。しかし、少なくともフッサールが超越論的経験論という言葉を使い始めたのは間違いないだろう(訳注pp.295-296、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学ISBN:41220233941など)。

個人的にはドゥルーズの「無人島の原因と理由」(『無人島 1953-1968』ISBN:4309242944)の、その無人島という概念と合わせて考えると面白いんじゃないかと思う。ドゥルーズも「超越論的経験論」ということを言い出した人の一人だ。ただし(これは上手くいえないことだけど)、フッサールが超越論的経験論に「たどり着いた」印象を与えるのに対し、ドゥルーズからは超越論的経験論「から出発した」という印象を受ける。それが大地にたどり着いた(コペルニクス説の転覆、という名前から言えば還元により再び見出した、というべきか)ような記述をするフッサールと、大地に対する信頼(=それよりもそこから分化していく島のほうを論じる必要があった)があるかのような記述をするドゥルーズの違いとなっているように思う。

ちなみにこの発想は間違いなく中島らも『水に似た感情』ISBN:4087471926、主人公モンクの最後の独白からヒントを得ている。大地と島と人について書かれたいい文章だ(他のところで『水に似た感情』は最後のシメに悩んだ作品と書いていたと思う)。少し長くなるが引用しておく。
「 人間は島だ、というテジャ老師の言葉が、モンクの胸のどこかから、どこか深いところから現れ出てきた。
こうして見ると、島は確かに人間に似ている。それぞれが孤立していて他の島と隔絶されている。月満つ夜、島は狭くなり息苦しくなる。干潮のときには広くなってゆったりと息をつく。
"待てよ"
とモンクは考えた。
"そのままずっと潮が引いていって、海水がなくなってしまったら、どうなるんだ。バリ島もロンボク島もスンバワ島も「島」ではなくなる。地続きの一つの大地になる。岡か山があるだけだ。もう孤島ではない。孤島ではないんだ。人間もそうなのではないか。われわれは時間軸と空間軸に沿って点在している。〇.何ミリかの皮膚によって外界と遮断されている。個というものだと自分を意識している。そうだろうか。「海の水」が引いてしまったらどうなる。一つの全体、大地があるだけだ。地続きだ。そしてある島で、猿が芋を海水につけて食べることを覚える。それとほとんど同時に遠く離れた島で猿が海水に芋をつけて食べ始める。別に不思議ではない、島、個、という概念が学者の足を引っ張っているんだ。我々は確かに島だ。だが根底のところでは地続きになっている。だから何が起こっても不思議ではない。そういうことではないだろうか。いや、そういうことだ。"」(pp292-293)
先にも書いたとおり、これは非常にヤバイ考え方だ。事実、中島らもさんもオカルトと関連付けて書いている傾向があり、きちんと順番を追って考えていかないと(あるいは考えていっても?)ただの戯言になってしまうだろう。