年末年始の記録・読書および視聴編

どれも短編だったので、たくさん読んだように見えないこともないけど。

読みやすいと思う。悟性を理性と訳してしまうことは最初こそ面食らったけれども、日本語の「理性」が判断、それも実践理性上の命令としての判断作用を持っていることを考えると(禁止命令、「〜してはいけない」)、これはこれでありだと思う。
「啓蒙とは何か」より。
「しかしこうした機構(マシン)に所属する人でも、みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的に振舞うように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。」(訳書16ページ)
「(前略)こうして統治者は、もはや機械ではなくなった人間を、その尊厳にふさわしく処遇することこそが、みずからにも有益であることを理解するようになるのである。」(訳書26ページ)
システムに組み込まれることから以下にして逃げることだけを考えていたときがあった。そしていつしかシステムに組み込まれることに言い訳ができるようになった。もう少しでそう考えることすらできなく「なれる」はずだったところを、カントは襟首をひっつかんでくる。もちろんコトはそう単純ではなく、あるマシンを離れようとも別のマシンの一部にしかなれないことも往々にしてある。でも問題はだいぶ小さくなっている。システムに組み込まれることに甘んじることが「未成年の状態」なのではない。システムに組み込まれてしまっていることに無自覚になってしまうこと、それが「未成年の状態」なのだ。判断停止しないこと、理性を使うこと、考えること。それがある意味デカルトの言う「私は考える、ゆえに私がある」ことでもあるし、小林秀雄が有名な思想家は君は君自身で居給えとしか言っていないということの真意でもあるということではないだろうか。『人倫の形而上学の基礎づけ』に続いてカントに勇気づけられたような気がする。一方、『人倫の形而上学の基礎づけ』に続いて笑えるフレーズもある。個人的にはこれ。
「(前略)哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格を備えている(後略)」(「永遠平和のために」、訳書213ページ)
何人か哲学者を知ってるけど、確かにそうだ。そしてたぶんこういう断定口調で言わざるをえないところも同意する。自分自身も哲学者なのにはっきり言ってしまっているあたりが妙におかしい。

前者でパトチカの論文を読む。世界が現れとなったところにフッサールの超越論的現象学はあるが、その先には現われを感じとる「われ」すらも現れとなっていく。世界が溶ける時点で「私」も溶け出したが「私」であった(超越論的主観性)。フッサールはそこを手放さなかったが間主観性の議論のとおり、私は溶け続けている。最後にどうなるか、そこに記述はあるのか―。もしかしたらフッサールが立ち止まったのは正解だったのかもしれない。しかし、そこでは「フッサール現象学的構想をたえず未来へと投企していったので、全体はプログラム的自己解釈の形で理念的に体系化されることになり、その結果、自己解釈と分析の成果との間に常にあるズレが生じ続けている」。その点後者のデリダはそれがフッサールの最初の著作から最後まで一貫してあることを執拗に追いかけている。ハイデガーのほうに実存的共感を覚えながらも一貫した方法論としてフッサールについている(『声にのって』)とするデリダらしく、「内世界的」などの言葉に代表されるようにこの論文はかなりフッサールよりである(ように読める)。『フッサール現象学の直観理論』でレヴィナスが露骨にハイデガーを下敷きにしたフッサール読解をしたり、『知覚の現象学』でハイデガーを引き合いに出しつつ現象学を論じたメルロ=ポンティと比べるとそこには違いがあるように思う。ただし、メルロ=ポンティのほうは結局問題がフッサールの問題として帰着することを指摘していた。その意味ではメルロ=ポンティのほうがレヴィナスよりデリダに近く、メルロ=ポンティの指摘を発展させたものとさえ捉えることが可能であると思われる。発生の問題と世界の問題はフッサールの哲学の中で前景化してくるのはだいぶ後になってからのことなので問題を絞った形で理解するなら先に引用した新田義弘さんの『現象学とは何か』のほうがいいのかもしれない(上記引用箇所は1992年講談社学術文庫版26ページ。なお、この本については未完読)。
ちなみに本編内容としては序論の特異さ(以前序論を読んだ先生が「こういう序論学生が書いてきたら書き直させるかもしれない」といったのを聞いたことがある。事実デリダの指導教官のアルチュセールフーコーに相談するハメになる)と、中盤の『形式論理学と超越論的論理学』の欠落(この欠落を『経験と判断』の読解と『学知の理論について』で埋めようとしているのはわかるけど)、最後のフッサールの独白の引用(これは『非‐知、笑い、涙』においてバタイユも引用しており、その発表時期もかなり近い)が気になる、ということだけを記しておく。

‘Cabin Man’を流しながらつむがれる言葉。今さらながら読んでみたけどとても面白かった。「明確なストーリイ展開もないままに語り手の真情を一人称でえんえんと書く」(巻末、筒井康隆さんの解説より)。しかしそこには介護相手である祖母をはじめとして、誰かへのメッセージで埋め尽くされている(前エントリーにならっていえば心は志向性を持っている)。そしてそれこそが最後に伝える”I wanna RISE!”を成り立たせているのだ。僕は’Cabin Man’を知らないのでこの”RISE”を手をあげること、と勝手に解釈しているんだけど、手をあげるのは自分の意志、と単純に思わないほうがいい。それは誰かの呼びかけにたいして(”YO,Say YO!”)手をあげるとき、ましてやむかつく相手に手をあげるとき(日本語の言い回しの面白さ!)ですらあげて「やって」いるのではないということだ。手をあげるためには手をあげたいと思うだけじゃダメで、手をあげなければならない状況に沈潜し、自分はせいぜいその状況を反復することしかできないのかもしれない(ウィトゲンシュタインの有名な話については、そういう話がある、ということしか知らないので割愛)。

  • 『VOCALIST』徳永英明、ユニヴァーサルシグマ、2005〜2007。

僕の年代で徳永さんはドラクエの主題歌の人、なんだけど。選曲がいい。歌の中では(歌舞伎とかもそうなんだけど)男が女を演じることができる。これは男が女に「なる」ことではない。自分の中の女の部分を自覚しながら「演じ」、それ以上の(もちろん男でもない)何かを「目指す」。ま、そんなに大げさに考えなくてもなぜか女性ヴォーカルもののCDばかり買い求める傾向のある(らしい。前に車に乗せた人がそう言ってた)僕にとっては自分で口ずさめる程度(徳永さんにはなれないことはわかっている)になっているアレンジが心地いい。