ここのところ読んだ本。

『経験と判断』は面白かった。ランドグレーべというフッサールの助手をしていた人がフッサールのもとで草稿を編集したものがもとになっているせいか、フッサールのいろいろな顔がこの本の中には出ている。緒論では考えることと感じることとの関係(個人的には正反対の向きをしている二つを無理やり一方―もちろんフッサールは「考えること」―に帰着させているように思えた)、それまでは緻密な分析であったにもかかわらず後半でいきなり『イデーン1』のときのようなあっさりした解決などにそれらは出ている。
あとは必然性の問題について。フッサールによれば経験から判断様相が発生する様子を追求する限り、この様態の起源にはぶつかりようがないらしい(p294)。必然性が再び問題に上るのは存在定立を排除し、本質を直観し、純粋な可能性について考えられるようになってからのことであるそうだ(第89節〜第90節)。後半は明らかにイデーンの議論が元になっており、その意味で経験論的ではない、超越論的な領域でのことであると考えているわけだけれども、それだと今の世界にいるということである限りは必然性の起源を考えることはできず、世界の存在定立を遮断してしまうことで必然性について考えることができる、ということなのだろうか。ライプニッツの可能世界論では今の世界が一番よい、という意味で必然的でもあったけれども、必然性ということを考える際の順序としてはよくわかる。
しかし問題はこの後だ。経験/超越論的というふうに完全にクリアにわかれることができるのか、もしかしたらそこにはすでに二重性が潜んでいるのではないか(「感じている私/考えている私」。ちなみにこれを書いていて『生と権力の哲学』を思い出した)。とするならばその二重性をつなぐものの中にこそ実は必然性の起源が潜んでいるのではないか。
『リアルのゆくえ』は、二人のわかりあうつもりのない、そのかみあわなさが面白い。こちらに問題を投げかけてきており、考えながら読むことを要求している。東浩紀さんに偏って言えば、かつて『郵便的不安たち』で書いていたタコツボ化する専門分野とそれをつなぐ郵便局としての哲学、という問題意識があり、その態度はゆらいでいる。とはいえ中盤のそっけない態度には大塚さんの言い分が正しいんじゃないかとか、でもそれこそリアリティは東さんの言い分が優れているとか考える。
余談ながら90年代ということがこの本でも、大塚さんが吉本隆明さんと対談した『だいたいで、いいじゃない』にも影を落としているが、僕に90年代を批評することができるのか、と考えながらこれらの本を読むと難しく思えてしまう。ひとつには批評そのものが僕にできるのか、という問題もあるのだが、それよりも90年代はよくも悪くも自分にこもりきりな状態で、なんとなく生きていることとなんとか生きているということとが両立するような状態だったからだと思う(以前似たようなことを話したとき、ある友達は僕の語る90年代は実像とはゆがんでいるはずだ、と的確な指摘をしてくれた)。まあこの学生時代真っ只中の特徴、と言ってしまえばそれまでなわけだけれどもそれは批評ではなく総括でしかなくなってしまう可能性が強い(それこそ『彼女たちの連合赤軍』ではないけれど)。しかも、僕にはカイコ(回顧/懐古)趣味が強いため(だって最近買ったCDがレベッカACOだったし)生き生きとした90年代/カイコ的に経験する90年代/今から見ての90年代がかなりごちゃごちゃになっている。そしてそれが現在に直結しているのだからタチが悪い。まあでもちょっと90年代についてはあえてそのゆがんだ歴史となるであろう90年代を考えてみたい、とは思っている。それはさっき書いた二重性(僕の場合は三重になっているが)と必然性との問題とも重なってくるだろう。
(追記兼私信:これを考える際に僕が影響を受けたであろう人に。最近出たクセジュ新書にはフランスのレジスタンス史について書かれている本が出ている。僕では読み解けないところも読めるのではないかと思うので、ぜひ一読をすすめたい)
『最終講義』はこれまでの本とのある程度の中身の重複こそあるけれど、はっきりと「制作されたものとしての存在」と「生成するものとしての存在」を対比させて書いたのはこの本くらいではないだろうか。『ハイデガーの思想』ではそこまで書かれてなかったと思う。『ハイデガーの思想』のときにここまで書いていてくれたら『芸術作品の根源』とかもちょっと読みやすくなってたのかもしれないのに(なので今読書中)。