記号学会

行ってきました(3週間前だけど)。ただ、1日目は見てないのでなんとも言える立場にありません。駆け足でコメントのみ。

  • 佐古仁志「生態心理学の新たな基礎付けに向けて―ジェイムズからパースへ」

発表後原稿をもらう(ありがとうございました)。内容はアフォーダンス(に含まれる様々なコノテーション込み)とプラグマティズム(主にジェイムズ)との関係を論じている。最後にパースのプラグマティ(シ)ズムへの関連を示唆して結んでいる。とりあえず二点だけ。一点目はプラグマティズムと生態心理学との関係。下手をすると生態心理学という線がいらなくなってしまう(パースとジェイムズとの比較のみとなってしまう)方向にならないかということ。もっとも裏を返せばつねに生態心理学との緊張関係を保っているところにパースとジェイムズを論じた面白さがあるのだということなのだろうけれど。もう一つはパースを持ち出す意味。最後がどうしても示唆にとどまってしまった部分があるためどういえばいいのかはわからないけど、バリバリの理系かつカントの純粋理性批判を暗記するようなパースのほうこそかなり「実践的」ということにならないだろうか。また逆にギブソンの世界と環境の違いに触れているところなんかはこれこそフッサールの地盤概念のようなフシギ系形而上学なところがあると思う。

  • 小林卓也「現代フランスにおけるソシュールの再評価に関する一考察」

ハンドアウトからのみの感想(ごめんなさい)。ソシュールをエピステモロジックに読むという試み。科学と心理主義の関係を明らかにしていくその考え方に『フッサール哲学における発生の問題』を書いたデリダが重なる。デリダはまた『グラマトロジーについて』でソシュール批判を行っているわけだが、一応『ポジシオン』なんかではその心理主義に向けて批判した、と言っている(邦訳p54)。しかし、デリダにとってなぜソシュールだったのかということについて、それはフッサールと同じく心理学と論理学の相克を目指していたものだったからこそではないのか、そして言語の「発生」をデリダソシュールの読解を通じて暗に求めていたのではないか、そういうことを考えた(ELG34によって引用されている絶対的定義ではない基盤、これを発生と読み替えることは可能なように思われる)。

パワーポイントによる発表を聞きながらのメモをもとに。虚構が現実を構成するということをラカン=フロイトを使いながら論じる。とても面白かった。今回の記号学会のサブタイトルが「遍在するフィクショナリティー」ということだったが、実はこれが一番それにそっているように思う。自分と言うものの当然性をほりくずしながら(自我―エスへの分割、死への欲動に動かされる私の発見)、そこから生きていくための現実を作るその人間のしたたかさというか強さが印象的だった。一方で、ハイデガーで説明できない?とも思ったり(「死への存在」や「きまぐれな他者」としての「世間」、「世間話」(細谷訳より))。そこの突合せをして納得すればラカンのすごさもわかるようになるのかもしれない(僕が)。

  • 江川晃「パースの情報記号学序説」

パワーポイントのプリントのみ(ごめんなさい)。数式が出てくるとちょっとひるんではしまうけれど、パースの考え方に確率を読み込んでいくところが面白かった。改めて情報量をあらわす数式を見てみるとまるでシュレディンガーの猫の箱を見ているようだ。それはどちらの事態も含んでいるものとしての設計図を現している。すごい。

  • 久保明教「文化としてのロボット/科学としてのロボット」

id:kuboakinoriさんの発表。以前から何回か似たような話は聞かせてもらっていたのだけれども、今回は稲葉振一郎さんが伊藤剛キャラ理論としてどっかに書いていた初音ミクの話とダブらせて聞いていた。稲葉さん=伊藤さんではスキがあるからこそそこに仮想の余地が生まれる、といったような話だったと思うけど(これは東浩紀さんのデータベース型欲望ともつながる)、これをちゃんと人類学的に説明しているのってないんじゃないだろうか。スキの作り方(菊地成孔で言えば「欠損」といってしまう欠損=スキだな)は僕たちが完全なものを作ろうとするくらい難しいことなんだけど、もしかしたらちょっとはじまっているのかもしれない。

  • 「映像とフィクショナリティー

シンポジウム。僕としては一番「第三の時間」が何かわかったような気がしたシンポジウムだった。「第三の時間」とはドゥルーズがおっかけてった時間の考え方で、『シネマ』においてそれはもっともよく展開されているらしい。けど、これがすごくわかんない。映画ですら途中で寝ちゃったり、これに関する論文も読んではみたけど正直???だった。今回ベンヤミンの写真論による話をはさむことによって、もし俯瞰的にものが見れるのであれば人がそれぞれに動き回るというイメージが第三の時間を見ていることに一番近いんじゃないかと言う感じを抱く。「SIREN」においてみんながバラバラに(しかもループ中での微妙な行動変化(1)、可能世界による平行宇宙(2)というように同じ人ですら時間が二重化されている)動きながらゲームをするプレイヤーが物語を組み立てていくその時間の二重×二重性、それが「第三の時間」なのではないかと思う(そしてそれは同時に全てを一致させるというとんでもない力があれば完璧なマスゲームになる、ということでもある。「政治の耽美主義化」「芸術の政治化」の対立項があったからこそそう読めたのかもしれない)。そしてドゥルーズベルクソンに抗して映画を持ち出したのは僕がベルクソンのメロディーの比喩にある種の反発を覚えたのとつながる、のかもしれない(そこまで頭がよくないことは自覚してますけども。でも、時間をある意味究極に単純化したベルクソンドゥルーズは包容力のある単純時間を批判として持ち出したとは思っているし、僕は音楽が細切れにされ、ミックスされていくといったところに単純な時間は考え直す必要があるんじゃないかとは思っていた。って、こう書くとやっぱりドゥルーズのほうが深すぎるほど考えてるな)。

とりあえずはこんなところ。もろもろの事情があり、完全には聞き切れておらず、また上記コメントもズレまくっているとは思うんですが、刺激を受けたのは事実です。どうもありがとうございました!