断片

シュッツによれば、現実は(宗教的、科学的、芸術的、…)多元的であり、その多元的な現実の中で至高の現実であるのが日常生活の世界である、とされる。確かに、日常世界において意味を持たなければ(普段の生活とつながっていなければ)どのような世界も(それこそ)「リアリティ」を持たない。その意味でこの説は非常にもっともらしいが、一方でその日常生活の世界もまた、それぞれの世界によってうまくまわるようになっている(先ほどの「〜的」の「〜」がない生活を想像すれば、それは明らか)。下手をすれば、日常生活の世界はそれ以外の現実の集合として考えることすらできてしまう。現在の社会状況はそう考えることを容易にしてしまう。

シュッツはこの考え方を多元的宇宙のウィリアム・ジェイムズより引き継いだように見えるが、一方で、フッサールの生活世界論からも影響を受けているように思える(フッサールにとって世界とは超越論的自我にとってのみ対象となるようなそのような世界であったため、「〜的世界」という下位としての世界論とは両立するように思える)。

斎藤慶典さんは、フッサールの生活世界が、科学的な世界を構成するものであると同時に構成された世界であることを示し、生活世界というできあがった世界として考える限り矛盾が生じるものであり、本来は動詞としての「生世界」という呼び方のほうがふさわしかったのではないか、と論じている(『フッサール 起源の哲学』)。

生成中である、作られている世界。しかし誰に?それはどのような世界?フッサールに習えば、それは言葉、記号の問題ということができるし、メルロ=ポンティはその根拠を身体、さらには地盤としての地球というフッサールの遺稿にそれ(問題解決の鍵を)を求めようとした(『フッサール幾何学の起源』講義』)。

(仮想(実は仮想じゃないんだけど。というかこの空間が仮想空間であるとするならば仮想と言えないこともないんだけれど)反論として。言葉の問題とすればそれはずっと解けない、なぜなら「言葉は無から有を生みだすことはできない」から、ということについては、確かにまどろっこしくはある、と答える。しかし、このような問題意識の中言葉に付き合っている人もいるのではないか、とは思う。うまくいっている言葉に対し、人はうまくいかない言葉をつなげることができる。そこを分析し(ここで終わりではない!)、うまくいくそのやり方、少なくとも言葉に「なった」、そのやり方を見つけるという仕方があるのではないだろうか。だから、「解く気がなかった」とは言いすぎなんじゃないかと思う)


遺伝子。通常、これは同一性を示す最後の意味であると受け止められている。それは間違いではないと思うけど、遺伝子がどう作用するのか、今問題になっているのはそういうところにある。なぜ、クローンは安全なはずなのに早死にしてしまうのか。安全なことはわかりきっている(だって、もとが生きてた遺伝子だし、そんなこといったら一卵性双生児はありえない)、けど、クローンはなぜか早死にする(もっとも、科学的な技術の問題にしか過ぎないのかもしれないのだけれど(けど、じゃその技術とは?))。もしくは、遺伝子を組み替えたとき、そこにどのような作用が出てくるのかということに対して、人はなぜか不安になる。意味が作用する世界。僕は声高に遺伝子とかクローンとか反対するわけではないけど、少なくとも不安をどうして感じるか、ということは気になる。そして、前にドゥルーズ入門』を読んで感じたこととはそういうことだ。この本ではご丁寧にも身体と遺伝という考え方のもと、『意味の論理学』(この二重鍵括弧は書名であると同時に強調をあらわすと思っていただきたい)を論じている(pp.148-151、pp.192-197)。