レスポンス可能性=責任

昔の記事にコメントがついていた。こういうのは自分で考えるよい機会だったりするのでいろいろ付け加えてみる(今ちょっと考えてみたらが批判とか同意とか、そういうはっきりした対話ではなく、かなりだらだらした感想になったので)(元校正の血が騒ぐが、原文ママです)。

こんな前の日付のところにコメントを書いても気付かれるのかわかならいけど。

これははてなアンテナなめんな!(笑)ってことで。以前失敗があったんで、ここも一応アンテナに引っかかるようになってます。ということでこのコメントの続きを書きたい場合はこちらの記事へコメントを書き込むようにお願いします>Musaeさん。

フッサールは、根源的受動層はある種過去把持の中にその原型を見出しているように思う

どうだろう?根源的受動層ってのがよくわかんないというのもあるけれど、僕は基本的にフッサールは「生き生きした現在」をもとに「過去把持」と「未来予持」が複雑に絡み合っている、という感じがする。過去把持にあまり大きな役割を与えないほうがよいような気はする。過去把持は生き生きした現在によって変化するし、未来予持もまた重要な受動層であるような気がするので。だから、

未来を作る受動的構成(もちろんフッサールはこんな言い方はしない)

僕は受動的構成の中に未来予持があると思うので未来を作る、という言い方をフッサールはしないだろうという点は一緒なんだけど、それはどちらかといえば「言う必要がない」に近い。要するに僕はフッサールを引き合いに出すのであれば彼はずっと今にいる、ということのほうが問題なのだろうと考えている。そこから未来を作ろうとすれば祈るしかない、そんな受動性についての理論になっているというところまで行き着かせたのは後述のデリダの功績と言えるかもしれない。

「何が<起こっても>、受け入れなければらない」という言明の無意識には、「次は「起こす」のではなく、「起こされるのみ」という前提が嗅ぎ取られてしまう。気になるのはその点だろう。

未来は必然的でありながら、そしてまさに我々のポイエーシスの結果でありながら、絶対的に受容せざるを得ない時層であるように思う。

「受け入れなければならない」、このことの微妙な差異を一見矛盾したことを言うことで言おうとしているというのはよくわかる。未来というのは「受け入れられなければならない」/「絶対的に受容せざるを得ない」ものであることは確かだが、「起こされるのみ」なものとしてではなく、「我々のポイエーシスの結果」として捉えられなければいけない。「受け入れることが必要」という共通認識にもしかしてMusaeさんはデリダ読んでる?とか思ったりもしたけど(笑)、そのついでにもう少し複雑であると僕には思われるこの事態を考えてみたい。例えば、デリダの歓待(メシアの到来とかでもいいけど)はどうしても「起こされるのみ」なものを感じてしまう。それは我々/他者という単純な図式にはまりやすい。もちろん、この単純に見える図式を丁寧に仕上げたレヴィナスみたいな人の影響もあるだろうし、僕はレヴィナスのその功績を否定する気にはまったくなれない。ただ、一方でデリダにはそれをデリミットしているところもあるから難しい。『エクリチュールと差異』で「そんなん、自分(=レヴィナス自身)が批判しているフッサール超越論的現象学と一緒やん」と言い放っているデリダが無自覚であったとは思われない。ただ、無自覚であった部分もあるだろう。その交差点となるところがまさに「書く」というポイエーシスが結果になるというところだと思う。彼は「来なさい」という言葉に対して「ウィ、ウィ」とは答えられるが(余談ながら高橋哲哉さんの『デリダ』では「ウィ」は一回きりだが、『デリダとの対話―脱構築入門』の最後はちゃんと2回になっている)、そのウィ自体に対しては「果てしなく生起する」(『ユリシーズ グラモフォン』)としか書けない。ここでウィの生起を差延(つまり違いと時間の両方の意味で)に従い追いかける、その意味でウィが自分で違うウィを獲得した過程を追っかけた結果ともいえる概念である「可塑性」を提案したマラブーさんは答えの一つを導き出している。「私」も変わっているということ、それは「私」の不動性を仮構として否定しつつ変わる(かつ呼びかけにも答えている)ということを肯定できるのではないか(何かニーチェみたいになってきたな)。

「我々のポイエーシス」。我―我々関係をどう考えるのかということはおいといて、一つ疑問に思うことがある。それは我々の中にはポイエーシスについて何もしていない、考えたことすらないメンバーがいて、その総体がポイエーシスなのだということだ。「私はそうでないと考えていた」と「私はそうだとは思ってもみなかった」は違うのではないかということを最近考えている。ベルクソン西田幾多郎は考えとして似ている部分が多いが(というよりそう習ったし)、絶対無を肯定するか否定するかで二人はすれ違う。ただ、ベルクソンの絶対無は「そうでない」の絶対無であるのに対し(「そうでない」の「ない」は「そう」を前提とする)、西田幾多郎のは「そうだとは思ってもみなかった」のそれだ(「そう」の存在が「思ってもみなかった」主語には捉えきれない)。私が我々に(あるいは逆もありうるだろう)ときにはそうだとは思ってもみなかったことをどう肯定するか(その意味でバートルビーは「それをしたくない」という練習問題を出してくれている)考えることが、ポイエーシスの実態を、自らが生きる理由を、先日日記に書いたTHE BOOM「手紙」でいえば鼻クソをほじってたってまわる世界を、肯定できることにつながるんじゃないだろうか。

最後。

多分、ボクが[]をやめられないのは

ここ、文字化けみたいなので英語かカタカナ読みで教えてください。

ボクが今を生きる理由を理論的に肯定しなければ気がすまないから、いや気がすまないのではなくて

こういうこと考えている人何人か見てるけど気がすまないってレベルじゃないと思う。気がすまないって言葉を使おうとすれば「なぜか世界を破滅させないと気がすまない」というようなレベル、ある種の狂気を含んだレベルの言明にしかなりえないので、

救われない

という言葉のほうが僕は逆にホッとします(笑)。ちょっとねじれてますね。