二人称、あるいは西川君が気絶してもトラウマさんところの探検隊を呼ぶという必要がないのかもしれないということについて

こちらは『生命と現実』、特に序文について。
対談に先立ち、序文において檜垣さんは木村さんの考えの紹介を行っている。その中で木村さんの基本概念の<あいだ>を取り出し、

「そうした<あいだ>で示されるのは、二人称の知のモデルとでもいえるものではないか」(p8)

と書いている。このことが僕にとっては面白かった。
以前『MiND』を読んだとき、サールは心や精神といったものについて一人称的観点と三人称的観点とを使い分ける「生物学的自然主義」という考え方をしていた。そうした場合、単純な話「心は二人称で考えることはできないのか」といった疑問は当然出てくるはずである(が、僕の過去の記事読むと出てきてない…。カウンセリングの考え方なんかあと一歩のはずなのに)。

この考え方はとても難しい。一つはこの序文中で何度も注意を促しているように<あいだ>は<こと>であって<もの>としてとらえられてはいけない。そもそもその<あいだ>を二人称としてとらえられるかどうかという(それはすでに<もの>的な視点が入り込んでいないか?)困難は常に指摘されるべきだろう。対談では木村さんが音楽の例を引き合いに出して流れにおいて調和の取れた音が(即興でやる場合にもバンドのメンバーがバッチリ調和の取れた音が)出てくることの必然性について触れている部分があるが、この部分を読んでいるとそれまでの音、そしてその場(←「場」であることに注意)の箇所に重点を置いている。そこにはライブ、あるいはセッションといった行為が必ずあるということに注意が必要だということだ。

(余談。今『受動的綜合の分析』を読んでいるのでフッサールならこれからの音を空虚表象とし、これまでの音の流れにおいて空虚表象に対する志向が一致するという説明をするが、それは空虚表象が違っていた場合の訂正可能性を常にフッサールは担保しており(そういう説明の仕方をする)、それはベルクソンに従えば過去に分岐があったとする思い込みにつながりかねない問題点であるとなるのだろう。)

ただし、この二人称というものが「精神医学的な知」(p10)(対して僕が前の日記で触れていた三人称としての精神医学は檜垣さんによれば「精神医学的な視線」(p10)となっている)であるとするならば、それは面白いことになる、と思う。フロイトの理論の肝はコミュニケーション不全が精神病をひきおこすということにあるんだと思うんだけど(注意二点。まずはコミュニケーション不全というものは精神病の必要条件であるが十分条件ではないということ。もう一つは、僕はコミュニケーションという言葉をむしろメルロ=ポンティバタイユの文脈で訳される「交流」といった感じでとらえているということ。そういえば木村さんはバタイユの読み直しが絶対に必要といってたっけ(p120))、そのためにトラウマとかの「もの」を取り出す必要はあまりなくなってしまうのではないだろうか。というよりもそのトラウマも含めた<あいだ>を変化させるということが強調されるようになるのではないか(「転移が起こらなければ治療になりません」(p133))。<もの>ではなく<こと>を重要視するということは先に書いたように難しいとは思うけど、ヴィジョンとしてわからないものではない、と思う。

他にも面白い論点はある。僕的にはハイデガー関係が面白かった(”Sein und Zeit”のゼミナールの話、またハイデガーの”das Mann”が統合失調症的観点から読めるのではないかという示唆、『哲学への寄与論稿』の話)。あとはあれ(pp.145-146)、やっぱりハルシオンじゃないのかなあ…とか。