ジャック・ラカン『テレヴィジオン』asin:4791751884

一度目だけは通したけど、全然わからなかったこの本。今回、最初の部分が、ちょっとだけわかったのでメモ*1
通常自分が文章を書くときは、「わたしは…と考える/思う/信じる/知っている」という風に書いていくものである(と「考えていた」)が、どうもラカンとしては「「あなたは」…おもう」と書きたいようなのだ*2
これにより、2つのことが帰結する。
1つは「あなたは…とおもう」と書かれれば、その時点で「あなた」である読者は反応せざるを得ないということであり、それはこの本を読むことが「著者の問いかけに答える自分」を勘定に入れて読まざるを得ないということである。だからこそ、ラカンはこれを分析家相手に行う、少なくともそこにもぐりこもうとするだけの人を対象にしたセミネールと違いはないと明言している(pp.16-17)。*3
2つめは、同じことのようだが、本、文章という体裁をとっている以上、どうしても「わたしは…とおもう」と読んでしまう。つまり、この本を読むときには常に「わたしは「あなたは…とおもう」と…」というように読まなければならない(読んでしまっている)、ということである。ここでもう2つ指摘しておくと、1つめ(2−1)は、「あなたは…とおもう」のせいで、「わたし」がどうしているのかが見えないことにある(だから「わたしは「あなたは…とおもう」と…」と書いた)。つまり、従来の「わたしは…とおもう」方式で読むことができない本となってしまっているのである。2つめ(2−2)は、いわゆる行間が複文構造をとっているため、非常に頭を使う。それは頭のよしあしというよりは、長い言葉をいちいち反復しつつ読まざるを得ない、記憶と思考を両立させる必要があるということでもある(なんか落語の「寿限無」みたいだな)。
ここまで書いて、すでに疲れつつあるんだけど、これが正しいかどうかはわからない(だって、ラカンは「わたしは…とおもう」方式で書いていないんだもの)。確かめるためには、ここまで書いた複雑な読み方の末、本書と(押し)問答を続けていくしかない。こうやって、人はラカンを読んでいくことになるのだろう(少なくとも、ここだけはみんながラカンを読むことによって仮説の位置は確保される)。

*1:しかし、最初の部分が一番難しいのはどうもラカンを読む人にとっては「常識」のようで、後述の内田さんのほかに同書に所収されているミレールやカトリーヌ・クレマンの本もこの『テレヴィジオン』の冒頭数ページを「女性」相手の「対話篇」風に書いている。

*2:「おもう」と書いたのは考えることも、信じることも、知っていることも、含ませたかった(だが、完全に一致しているわけではない)ため、大学時代の某先生の言い方を拝借した。余談ながらこの本を読んで「全然わかりませんでした」と正直に話したのもこの先生にだったりするが、そんなこと言われた方はどうしようもなかっただろう。

*3:内田樹さんは「現代思想のバーナード犬」(『ためらいの倫理学』所収)において、ラカンの『エクリ』の冒頭を引いて、これはラカンが「これはものすごくむずかしいからね」といいつつも「ラカンを読め」と言っているのだ、ということを書いているが、要するにそういうことだ(著者の問いかけに応じないやり方はこの本を放り投げるか、冒頭を無視した、かつての僕のような益の少ない詠み方をするかしかない)。