拾い読みを混ぜ合わせてみる。

ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』、ベンヤミン・コレクション1所収。

「これがファシズムが進めている政治の耽美主義化[美的知覚化]の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ」(p629)。

一応学部時代にもこれは読んでたんだけど、イマイチこの最後の文はよくわからなかった。今もよくわかっているわけではないけれど、ベンヤミンコミュニズムに肩入れしていたと思われるところから推察するに、この最後の文が妙に引っかかる。この文のわからなさとは耽美主義化された政治と芸術の政治化がわかりにくいことにつながっているのではないかと今さらながら思う。どちらも複製技術時代における芸術作品からのものなわけだし。『ニーチェ三島憲一著、岩波新書、1987もパラパラ読んでたりしてたんだけど、

ニーチェがめざしていたのは、<力への意志>による支配のための認識ではない認識、そうした支配のからくりを反省によって見破り、非暴力によって破壊し、自己を美と同一化させる認識であることを(トーマス・マンの兄であるハインリヒ・マンは)理解していた。すでに一八九六年に彼は『芸術のうちに把握しえた文化の原理が持つ救済の力を信じる』ニーチェの思想は、懐疑主義でも、アナーキズムでもないと論じている」(p215。強調部、( )内は引用者による補足)。

なんてのもそっちにつながっていくのかなと思う。東浩紀さんのブログ内の記事「解離的近代の二層構造論2」では自分の著書の非政治性について書いていたけどそのことを考えた場合『動物化するポストモダン』はベンヤミンで言う芸術の政治化をこそ目指していた(と好意的に読むことができる)とは言えないだろうか。さらに言えば『存在論的、郵便的』においての非政治的に行っているとする読解は、もう一人の有名なデリダ読解者でもある高橋哲哉さんと対を成してように(さらに意地悪く読めばの最近の活動がまさに政治の耽美主義化、言い換えれば政治的な思惑が先にあってデリダがむしろ後になっているのではないか、そう批判しているようにも)読めると思う。

しかしこの問題は難しい。ちょっとだけ複製技術の粋である音楽関係の本を読んでいたことがあるけど、この問題だって芸術の政治化とはおそらくサンプリングされ、リミックスされた結果豊かになった音楽がなしくずしに(なしくずしという言葉はこの場合まさにある種の非暴力性を指すようになる)既成の著作権とかを変えていく(破壊するにはなかなかいい制度が多いので)ようになることを言うのではないかと思うんだけど(その意味で美学的見地から書かれた増田聡さんの『その音楽の<作者>とは誰か』はむしろ一番初めに出てくる必要のある本だったと今でも思う)、それに対して必ず政治の耽美主義化が対抗勢力として出てくる(アーティストを守れ!)。それに対してついついこちらも政治を前面的に押し出した態度をとらざるを得なくなってしまう(レッシグの『FREE CULTURE』はその方針で書かれている。三秒ルール)。

ところで、この記事は政治的なのだろうか、非政治的なのだろうか?