It thinks...

『マインド―心の哲学ISBN:4255003254。買った人は多分みんな思ったと思うけど、結構分厚い(洋書のペーパーバックって感じ。まあ原書がそうなんだけど)。その割には値段も抑えられてるし、何より訳が速い(原書は2004年)。結構大変だったんじゃないかと思う。

まだはじめのほうしか読んでないんだけど、最初のほうのヒューム、リヒテンベルクが考える主語に「私=I」を無条件に考えるべきじゃないんじゃないか、みたいな議論のところが目に留まった(p58)。これはデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対する批判としても読めるんだけど(というより著者のサールは―そういえばこの本で初めて顔を知った―その文脈で紹介している)、そのときに"It thinks"、単に考えるということがあるだけだということを書いてるのがひっかかった。

というのは、最近読んだ『ラカン精神分析ISBN:4061492780、第五章「他者になるということ」の中で(著者である新宮さんはラッセルの言葉として)「I thinkということはできぬ。It thinks in meと言うべきである」(p189)と書いてあったからだ。もうちょっと引用すると、

「自己言及の構造が人間の思考に植え付ける脆弱性ゆえに、このような他者の介入は避けられぬことである。我々は夢の中で他者に出会うというよりも、むしろ他者になるのである」

と書いている(p189)。心は自分のものだと考えるのが普通なのに、その心を考えていくと心をあえて自分というか私というか、とにかくそんなものから離れて考えなければいけないというところが面白かった。

しかし、考えるということをもう一段過激に(正しく、という意味ではない。正確に言うともう僕にはそれが正しいかどうかはわからない)とらえるとどうなるか。「それと呼んでしまったことは何たる誤りであることか」(『アンチ・オイディプス』、邦訳p13)。もはや仮主語としてのitすらどうにかしてしまう立場があるのだ。

主語―仮-主語―(無?非?)-主語。心というのは考えれば考えるほどわからなくなるが、それは考えるのも心だということ、その心は主語さえ霧散させてしまいかねないものだからなのかもしれない(『フーコー』なんかは逆に考えてると思う。また、ここまで考えた以上は、先の二冊を自分なりに考えて読まなければいけないとも思う)。