再び棚からひとつかみ

本d(略)。

ジル・ドゥルーズ「神秘家とマゾヒスト」宇野邦一訳、『無人島 1953-1968』前田英樹監訳、河出書房新社、2003。ISBN:4309242944

ドゥルーズがどうマゾヒズム(-サディズム)を考えているかが何となくわかる。僕はこれまでドゥルーズは「マゾッホに固有の価値が存在する」(p278)という主張だけをしていると考えていて、だからこそ「マゾッホが話題になると、あなたはサドについてお答えになる」こと、それも「必然的なこと」であるということがよくわからなかった。今回何気にパラ読みしていると、ドゥルーズにとって重要なことは「サディズムのあらゆる反転や転倒とは無縁」であるということ、「一方から他方への変形の移行過程を考案すること」ではなく、「擬似的な一体性を解体」し、「二つの一体性そのものを問題にする」ことをドゥルーズは考えていたのだと思う(以上、引用箇所はすべてp278より)。

サディズムマゾヒズムも容易に転倒しうるという事態は、精神分析がある種の恣意性に立脚しているのではないか(そしてその担保となっているのがいわゆる「SM」、片方から見た事態ともう片方から見た事態との相対(対称?)性であるのだろう)、そうドゥルーズは異議申し立てを行っているのだろう。精神分析は心が身体に及ぼす症状を<何かを意味している何か>、そうとらえはしたが、そこからさしあたってどのように症状が現れるか(つまりどう意味するか)ということには自然的な結びつきはない(だからこそ精神分析医になるためには一子相伝的に精神分析を受けてからだで覚える必要がある)と読むことができる。つまり、上で「恣意性」と書いたけど、ある種ソシュール記号学との平行線を見ることができるのではないだろうか(精神分析記号学の関係についていえばラカンみたいな人もいるし)。

しかし、記号の発生の問題を考えるのならば恣意性ということがネックになるのと同様に、マゾヒズムの発生ということを考えた場合、サディズム-マゾヒズムという擬似的な一体性は再考する余地があるように思う。フロイトの面白いところはエディプス・コンプレックス論に関してもそうだが、発生の問題についても考えはしているということにある(だからドゥルーズはこのテキストの中で「子供が叩かれる」を「称賛すべきテキスト」としているのではないかと思う。p281。)。

では、マゾヒズムサディズムの違いというか、発生とは何か。それは「契約」であるとドゥルーズはしている(p281。テキスト中では「本質」と書いている)。自らを契約により<縛る>、それこそがマゾヒズムなのだと。

ここからは少しだけドゥルーズを離れる。少し、というのは「器官なき身体」というドゥルーズアルトー)の言葉を元に話を進めたいからだ。契約により縛るということ、それは器官化された身体を意図的に縛り上げ、器官なき身体を獲得することではないかと思うからだ。それは、それこそウニの受精卵を糸で縛ってさまざまな分化を観察できるように、自分を卵の状態に貶め、そのかわり別の環境適応を引き起こす=別の生を生きることを可能にする(正確には可能性としてはあったんだけど、その可能性を開く)ことにあるのではないだろうか。

全然ドゥルーズから離れなかったけど、離れると書いたのはこの「器官なき身体」であると鈴木創士さんに評された(ちなみに鈴木創士さんはアルトードゥルーズも訳している。『KAWADE 道の手帖』内の対談における器官なき身体のような科学的含意について理解しているかどうかはわからないけど)中島らもさんの「DECO-CHIN」について考えてみたかったからだ。しかしそれを書くには時間が遅すぎるのでまた今度。