バルトからサンプリングへ

ロラン・バルト現代社会の神話』ISBN:462208113X。以前は抄訳しかなかったが、今回著作集の一冊として完訳版が出た。しかし高ぇよ。ところで、この本の中でも使われているバルトのコノタシオン/デノタシオンはイェルスレムウという人がもとだったとか。シニフィアンシニフィエで構成される(とされる)記号そのものがシニフィアンとして作用する(だったかな?)。
一方、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは<シニフィアン帝国主義>、例えば本を箱と見立ててその中に何かが入っているという考え方を拒否して、それを<機械>としてどこに組み込み、どう動かすかということが大事だと主張していた。けれど、一方で先述のイェルスレムウを高く評価していて、僕はちょっと不思議に思っていた。なぜならコノタシオン/デノタシオンの考え方はシニフィアンによる入れ子構造、シニフィアン帝国主義そのものだと思っていたからだ。
さらに話は飛ぶ。最近書いたが、ラジオパーソナリティである七尾藍佳さんの修士論文は『デジタル時代の音楽著作権と日本の音楽産業』というもので、僕もそのテーマにかなり近い卒論を(もちろん出来栄えは全然及びもつかないものであると確信しているけれど)書いた。で、そのもとがどこにあるかを考えてみると今七尾さんが出ている番組が放送される前にやっていた番組で流れていた(最後のほうは七尾さんがアシスタント的なパーソナリティとして出てたけど、当時はまだ出演されていなかったはず)key of lifeの歌がもとだったことを思い出したのだった。
で、これらをつらつらと考えているうちになぜかさっき不思議に思っていたことがなんとなく不思議ではなくなっていったような気がした(わかった、とすら言えないのだけれど)。うまく書けないけれど、メモするとすればこんな感じだ。
まず、意味内容と意味表示を備えた記号そのものが意味するということは、「記号が動いている」ということだ。それは記号がどう機械として作用しているかということになるのではないか(僕の中ではデジタル時代の音楽は早朝のラジオから受け取り、早朝のラジオに(ある意味において)「返した」)。しかし、それはシニフィアンがもつ入れ子構造的なものではないのか、そういわれるかもしれないが、記号を動かすもの、記号を記号たらしめているのは「記号ではない」。それはバディウが『ドゥルーズISBN:4309242030いたように、ドゥルーズに意外と近いハイデガーが存在者と存在は別だと言ったことに近いような気がする。つまりそれは適切な言葉さえ作り出すことができれば、考え方を上手につなげられるのではないかということになる(もっともそれが難しいことはドゥルーズもよく知っていて、だからこそ『哲学とは何か』で哲学とは概念を作り出すこと、と書いたわけだけれど)。
そして、僕が今考えているほど実は構造主義とそれを否定したとするポスト構造主義という図式はあてはまらないのかもしれない。そう考えると僕の身の回りにはむしろ構造主義に関する興味のほうが満ち溢れている気がする。平凡社ライブラリーにより復刊した『構造主義とは何か』、そこに解説を寄稿した内田樹さんの半ば意図的な構造主義と呼ばれる人への共感、オマージュ(『他者と死者』におけるレヴィナスラカン)。『ジジェク自身によるジジェク』による「ポスト構造主義」がまゆつばものだということ。そして何より、バルトの復刊。僕たちは何が動くのか、何が動かないのか、そして動かないこととは何なのか(動くものについては?といわれそうだが、これは単純に西田幾多郎の「場所」とか斉藤慶典さんのフッサール本で読んだ「大地」などが無意識のうちにあるのだろう)を考えることが面白いのではないか。