読んだ本&一言

ちょっとした時間ができたときに読み飛ばした本(それぞれの単著本ではちょっと時間が足りないと思ったので)。ドゥルーズ構造主義論文の最後引用しようと思ったけどあまりに安易なのでヤメ。でも、全体の雰囲気はまさにそれ。個人的に目を引いたのは茂木さんがニュートンでなくダーウィンを目指すと言っている所。膨大な経験(データではない)がある一つの理論を要請する、しかしそれは経験主義的ではない、そのような理論形成を目的としているあたりが面白かった。哲学の分野で言えば数年間遊びほうけて六日ひきこもった(←大幅誇張)デカルトがいるけど、理論(形而上学的な部分を必然的に含む)には経験の大小を代償にした理論の大小、というものがありえるんじゃないかと思った。

読み飛ばし本第2弾。学校で習う社会の「公民」分野になると思う。学生(というより公民は児童だな)のときは公民分野はあまり好きでなかったが、やっぱり自分が「自分たち」になるためにどのようにルールを決めてきたのか、今はどういう決め方になっているのか、そしてこれからその決め方にしたがいつつもどういう決め方を決めていかなければいけないのかということは必要なんじゃないかと思う。とか言いながらこの文章を選挙日当日に書くあたりまだまだ修行が足りないんだけど。

ヘーゲルを読もうと思って手を出す。まあまあわかりやすい。けれど本題よりは話題がそれたほうが面白いよな、とか思いつつ読む(付箋貼っているところを見たらほとんど本筋に関係ないところだった)。その後『現代思想ヘーゲル特集号や『哲学の歴史』のヘーゲル加藤尚武さんの一見


これからヘーゲルを読もうという気を非常に減退させる


解説をなんとか消化し考え直してみるに(でもああいう否定的な書き方するとヘーゲル読まない人も増えると思うんだけど。たしかにヘーゲルの考え方から行けばヘーゲルの哲学は変わっていなければいけないし、それはヘーゲル的には否定でしかないんだけど)、本題とかそれてるとかじゃなく、


濁流


なだけなんだとわかった。付箋箇所については暇があったらコメントしてみようかとか思っちゃったり(←完全に逃げ腰)。

前回なかったと書いたデリダレジスタンス。第二論文はイマイチ印象に残っていないけど第一論文のフロイト(だけ、といってもいいほど丁寧な)読解と第三論文のフーコーデカルトフロイトを立ち回らせる読解が対照的で、しかも面白い。デリダの読解はたまに無限後退を免れないような感じになることがあるんだけど(フロイトを読むラカンを読むデリダ、とか)、第三論文のマカロニウェスタン的読解(中島らもさんが自分の演劇がどんなものか書いてたのから拝借した)はそれとは違っているし、大事なことなんじゃないかと思う。

ここここを思い出しながら。鴨志田さんの顔の書かれ方が全てです。