続続続レジュメ

河野哲也メルロ=ポンティの意味論』。2000、創文社ISBN:4423171279
第九章、第四節。
三節の補足的な節。

通常の意味での指示的意味から考えると、これまでのメルロ=ポンティの指示的意味の説明では不十分なものとなってしまう。指示においては、対象をrepresentし、「記号と対象という自然的な繋がりのないふたつのもののあいだに、一つの関係が設定されている」(p190)必要がある。

メルロ=ポンティのシンボル理論は「本来自然な繋がりがないものを対応させる点にある」というところでは同じであるが、シグナルの代理としてシンボルを考える「行動主義的シンボル理論」(ここまでp190)とは違い、「シンボルはシグナルを構造化すること」にその特徴がある。その結果、「シンボルの構造はそれによって意味される諸事象間の関係に等しいものとな」り、「そこには言語が世界を写し取っているかのような関係が成立する」(ここまでp191)。この行動形態を「象徴的形態」と呼ぶ。

行動の構造的側面に注目することにより、メルロ=ポンティ有機体の行動を慣れた行動の型に応じて(知性等には依存しない)三つのレベルに分類した。低レベルのものから順次紹介すると…。

1.癒合的形態
いわゆる本能行動のレベル。生物学的条件枠の中にあり、大きな環境の変化への対応は困難。
2.可換的形態
シグナル操作が可能になり、学習による条件づけが可能になる。
3.象徴的形態
シグナルを一つの意味を持った全体へ構造化できる状態。例としてのタイプライターのような行動で言うならば、いちいちキーを対応させて叩いているわけではなく、音システムと楽譜システムが演奏という行動のもとで相互に移調可能になっているところにその特徴がある。
(←メルロ=ポンティ側から見ると、ベルクソンのメロディの比喩はこの段階になってはじめて使えるものとなると見るべきか?)

この、「直接的には類似していない諸構造間を内的に結び合わせ、それをひとつの行動のもとに再構造化する能力」である象徴形態の行動が、「言語と対象を対応させるときにも働」く(p193)。そしてこの議論をもとにすると知覚と言語の転換可能性がわかってくる。先の言葉を引けば、知覚システムと言語システムが同じ行動にともに関わっており、その行動のもとで相互に移調可能になっているのである。「同じ行動にともに関わっている」ことを逃してしまうとケーラー、構造主義文化人類学者(←レヴィ=ストロース?)の陥ったアポリアに突き当たってしまうのであり、逆に言えばメルロ=ポンティはそのアポリアから逃れているのである。


五節

行動の成否の問題。
通常の行動…物、世界が保証する。あるいは、物、世界の反応によって行動を訂正する。
言語行為…他者に依存する。

この帰結として、言語は世界は世界でも間主観的世界を前提としていることがわかる。さらに、言語は
(1)対話者としての他者
だけでなく、
(2)言葉自体が受け継いできた社会的・歴史的他者
この二点の他者に依存していることに注目する必要がある。