続続レジュメ

河野哲也メルロ=ポンティの意味論』。2000、創文社ISBN:4423171279
第九章、第三節。

三節前半ではこれまでの発語プロセスに対し、理解プロセスの説明。後半は前半部が成り立つための(状況)表現としての行動の説明。

1.理解プロセスの説明


メルロ=ポンティにとっては、言語の指示的意味の理解とは、他者の言葉を「ある状況における行動」として自分自身で取り上げ直すことである」(p188)。

もう少し詳しく言うと、言語が所作であるというメルロ=ポンティの考えに従って所作の理解を振り返った場合、所作の受け手によってその所作が把握しなおされる必要がある。それは感覚や感情の投影ではなく、身体図式に基づいた私の意図と他者の所作の間の相互性、私の所作と他者の行為の中に読み取り得る意図との間の相互性によって理解される。それは何も視覚的認識にとどまらない。他者の所作は知覚したと同時に自己の運動のうちで取り上げなおされているのである(「他者が私の知覚のうちにすべりこんでくるとしても、それは背後なのからである」(『世界の散文』))
(←理解はするけど、例えば自分と違う身体の持ち主に対しての理解という意味ではどうなんだろうか。ちょっとざっくりしすぎな感もあり、器官と身体の関係をつっこむ必要があると思える)

メルロ=ポンティにとって言語は行為、つまりある状況に対する身体行動として取り上げなおされるからこそ他者の言語を理解することができる。

2.表現としての行動

1.の結論がなぜ成り立つかと言えば、メルロ=ポンティにとって行動が「世界と主体のある種の対話」であり、「行動が確立するということは、状況と行動、刺激と反応が一対をなすこと」だからである(p188)。習慣を考えてみるとわかりやすい。それは状況への反応が自動化し、刺激と反応が一組になっている。その意味で、習慣は状況を表現するほどである(歩き方の例)。
(←服との考察を含めるともっと複雑に、もっと面白くなるかも。江戸時代では同じ側の手足を同時に出していたそうだし)

行動には世界がすでに刻印されている。行動基盤である身体にすら世界が侵入している(蛾の聴覚器官、オタマジャクシやイモリの口蓋部、人の目、肺、歩き方)。「習慣的行動は己を特定の環境下に順応させ」、「環境と己をひとつの機能単位にしてゆくような活動であ」り、「(己の側から)もっと言うなら習慣は一つの新たな身体器官を形成するかのような働きなのである」(p189)。

言語もまた行為であるというメルロ=ポンティの考えから言えば、言語が意味を持つのは習慣として獲得され、言語という行動のうちに状況がとりこまれたことの証に他ならない。定着したパロール、既得化した表現はそれが定着した(とりこんだ)状況を遡行的に指示するものとなり、ここに指示的意味の発生がおこる。