続レジュメ

河野哲也メルロ=ポンティの意味論』。2000、創文社ISBN:4423171279。今回は第二節。(←)の意味は前と同じ。今回強調箇所があるのでそれについては<>で示しました。

「言語は自らに意味作用が与えられたときに始めて、単なる記号としてあらわれてくる」
(『知覚の現象学』)
メルロ=ポンティが問題にするのはこの「記号と意味作用がはじめて姿をあらわしてくる表現的統一体」(同上)である。ただし確認として
(1)原子論的言語観の拒否、言語を一つの全体とみなす。
(2)観念論、言語の範疇作用が経験を組織化することの拒否
この二点を守りながら「分節化した全体たる言語」を「世界と関係づける」ことが条件となる。

まずはメルロ=ポンティの「あらゆる行動は知覚された世界を背景としてなされる」(p180)ことからはじめる。あらゆる行動の中には他人への所作(として)の言語も含まれる。というよりもメルロ=ポンティが言語をそう規定しているからなのだが、ということは、発語行為/指示はその知覚された世界内のもとでのことであり、言語を習得するということはその世界内での適切な行動を習得することである。

しかし、それは一対一対応で覚えていくものではない(条件1)。最初は「漠然とした一般的状況に対する未分節な反応として獲得される」(p181)。要するに一対一対応なんてできやしない、世界と言語の両方ともが曖昧模糊としたままなのである。結果として当初の言語は状況全体に対しての全体的反応になる(←赤ん坊が泣くか笑うかしかないこと)。その意味で最初の言語は単語ではなく、文なのである(←一語文、二語文といった分類の仕方はこの意味で正しい。というよりそういった発達心理学から着想を得ている?)。

「言語習得は(…)一応は意思伝達として成功した反応を、漸次分節化してゆく過程にほかならない」(p182)。ソシュールの「ラングは分節化の体系である」という考えは、メルロ=ポンティによって「状況への反応たる言語活動の」分節化/差異化、つまり「ラングは差異化していく<行動>」と理解される(引用はすべてp182、強調は引用者による)。

単語の習得はこの観点をいわば迂回することによって考えられなければならない。つまり、指示的意味の発生とは状況に対する行動の仕方の獲得であり、一つの語が指示対象を持つということは状況に対する行動が微分化し、単語的状況に適切な単語を発する仕方を覚えることにほかならない。そしてこのことは<違った状況に同じ行動をとっても正解となることがある>ことを否定しない。語の共通性というか、「語がさまざまな文脈で用いられること」(p184)は、このことによって可能となる(条件2の達成)。

(←引用文はできる限り省いたが、メルロ=ポンティのセンスが光る文章が多い)
(←どうしても最近の読書と関連付けてしまうのだが、フロイト精神分析もある意味この分節化に似ていると思う。メルロ=ポンティのある種の行動としての言語習得論に従えば、なぜ意識化しただけで症状が治まるかという問いは原因とされるものに適切な行動を与えることによって適切でない行動が治まるということではないだろうか)