小泉義之『病いの哲学』、ちくま新書、2006。

野暮用で暇ができたので本屋で買ってきたもの(これまでも少しは読んでいたけど立ち読みや借りての読みだった)。一気に通読。思ったことを以下に何点か記す。

これを読んでいるときにずっと脳内再生されていた曲、それはBLANKEY JET CITYの『ロメオ』だった(ケンコバ大王のOPで覚えた)。たたきつけるようなギターからのはじまり、それはきれぎれの文体。哲学史につきまとう死の哲学、それはまさにビニールパンツでぬぐわれるべきグリース。生きているかぎり病んでいるのなら病んでいるふりをすればいいし(五章のパーソンズ)、それは別に悪いことじゃない。そしてそのことをわからずいまだ死にかた、死の美しさに淫しているやつらに言い放つ、「ねえアンタ少しヘンだよ」という言葉。 『ロメオ』は確か何かのCMにも使われていたと記憶しているが、僕の記憶に残り続けるくらいの力をもつ歌のインパクトを、またこの本ももっている。

死の哲学と病いの哲学という対比によってこれまでの哲学史にまた新たな側面があることに気づかされる。ソクラテスプラトンをわれわれは同一視しがちだが、そこには齟齬が既にあり、またその齟齬を指摘したデリダプラトンソクラテスに書かせている絵!)は系列的に見れば死の哲学であるハイデガーレヴィナスの直系にいると普通はみなされる。しかし本書において小泉さんはデリダがもつ信仰を浮き彫りにし、病いの哲学を立ち上げている。

また、本書においてはデリダと正反対で、むしろ生の哲学の直系であるドゥルーズがいないことに気づく。知ってのとおりドゥルーズは1995年、アパルトマンにて自ら「死体を窓より投げ捨てた」(この言い方が正確でないことはわかっている)。もちろん小泉さんはドゥルーズではないし、また前に書いたレヴィナスNHKブックス)をもまた批判していることからして(しかも前書では繁殖を前面に押し出した論調だったが、レヴィナスを論じているところで骨髄移植のために生まれた子どものことを書いている(pp.116-117)のは示唆的だ)、ドゥルーズにつねに寄り添う必要はどこにもない。しかし生命の哲学者として多くを学んでおり、ドゥルーズについての本があり(『ドゥルーズの哲学』、講談社現代新書)、『無人島』翻訳を監修した小泉さんがドゥルーズを引いていないのはちょっとひっかかる。結論を先に言ってしまえば、僕はこの沈黙をドゥルーズに対する批判だと読んでいる。大事なのは乗り越えられたから捨てられたはしごではない、ということだ。あくまで批判なのである。ただし、そのことを話そうとすると二つほど補助線を引かなければならない。

ニーチェは、今日?」というテーマにおいてなされたシンポジウムにおいて、ドゥルーズは次のように議論を始めている。「今日のニーチェが何であるか、あるいは何になるかをたずねるのなら、誰に聞けばよいかはちゃんとわかっています。今まさにニーチェを読んでいる若い人たちニーチェを発見している若い人たちに聞かなければなりません。私たちはもうとっくに年をとりすぎていますからね(後略)…」(「ノマド的思考」、『無人島 1969-1974』所収、p227)。そして、当時もっともニーチェ的だと思われたテキストとして、ドゥルーズがあげているのが『生きること、それは生き残ることじゃない』だった(p228)。この内容について言及されていない、言い換えれば題名が引用のすべてであるこのテキスト。しかし、病いの哲学はこれにそぐわないこともまた事実である。しかし、ドゥルーズは自分で言っている、年をとりすぎていると。またまったく話が違うことを考えると、新たに生きることを考え直し、生きることと生き残ることの新たな考えを模索することこそがニーチェ的なのではないだろうか。

また、小泉さんにより告白される回復不可能なものの回復という信仰(pp.154-155)、この信仰を抱いた人を他に探した場合、僕はベルクソンが思い浮かぶ。「心と身体」という小論文(筆者が参考にしているのは中公バックス版、現在は中公クラシックス『哲学的直観』に収録されている)の最後において心の領域が脳に収まりきらないという経験から(無論、経験科学によりこれらの問題の周辺については解決されていくだろうということを前提としながら)少なくとも心が身体、脳より生きながらえることの蓋然性を見出している(pp.192-193)。数年前このテキストを初めて読んだときからここだけははっきり覚えていて、個人的にはベルクソンの「哲学」、およびその過激さがもっとも現われているところの一つだと思う。人は確かにみんな死ぬという経験を僕たちは疑わない。けれども生きているということもまた僕たちの経験でははかりしることができないという経験もまた同時にしているということを小泉さんとベルクソンは僕たちに思い出させる。(エピソードを二つ。小泉さんは永井均さんとの共著である『どうして人を殺してはいけないのか』において「殺す」ではなく「死体化させる」という言葉を採用している。これはまだ本書ほどはっきりしていないが、死ぬということの段階性を論じ始めたものと考えることができる。もう一つはこのベルクソンの小論文をわざわざ入門書で驚きをもってとりあげている人が金森修さんだということだ(NHKブックスベルクソン 人は過去の奴隷か』)。金森さんと小泉さんはまたビオスとゾーエーについて対談しており、すれ違いがあるように見えるが、このベルクソンと小泉さんを重ね合わせてみると、僕にはこの二人が信仰を共有しているように思われる。)

ここで話を戻そう。ベルクソンニーチェ、この二人は生の哲学に位置づけられ、なおかつドゥルーズがもっとも影響を受けた哲学者である。小泉さんはドゥルーズを明示的に出してはいないが、ニーチェ的、ベルクソン的な考えではあるとするならば、これはまさしくドゥルーズ的な本ではないだろうか。しかし、ドゥルーズではない。そこにはドゥルーズの考えと投身という行為との関係という問題があり、そしてそれはまだ解決し切れていない、と思う(吉本隆明は『だいたいで、いいじゃない』においてドゥルーズの投身を理屈で考え抜くからこそのものだと考えていた。僕自身はドゥルージアンとされる人の意見よりはこっちにシンパシーを覚える)。だからこそドゥルーズを明示的には出さず、その骨を生かしているように僕には思えたし、それは何よりドゥルーズに対する最高の批判であるように思えた。

死の哲学から見れば病いの哲学により無理やり生かされるのはまた暴力でもある。無限の時間を想定する必要のある病いの哲学側としてはそれをはっきり受け入れることになるが、そのことについては考える必要があるだろう。