大学時代にお世話になった先生が大学を退職されることになり、新たな門出を祝うための会が開かれた。大学院生に友人がいて、お誘いをいただいたので僕も出席することに。

僕が卒業したのはもう4年も前のことなのだが、受付で待っていると先生に会えた。少しだけ話をする。

受付をして大学時代の友人や先輩、後輩とも話す。挨拶直後に「今どんな本読んでる?」とかいきなり言われたり、最近更新してないね、とか(id:perdurantistさんに)言われて焦ってしまうところまではまあいいんだけど、僕の名前が受付名簿で「学生」にカテゴライズされていたのはどうなんだろうと思う。まあ、それだけ僕のことを変わらず覚えていてくれているということなのだろうと考えることにする。他にもid:kuboakinoriさんも来ていた。このお二人はIDを書かせてもらったが、はてな率は高そうだった。

しばらくして開会。司会はこれまたお世話になった助教授の先生。「学生がギリギリにならないと来ない」とこぼしていたが、僕からすればギリギリにでも来れたということが奇跡だと思う(時間のルーズさはすさまじく、30分遅刻して行ったら4人しか来ていなかったことがあったので)。

…しかし、あらためて見渡してみると出席メンバーがすごい。最初に乾杯の挨拶をした人が自己紹介していたけど、必要ないって。またその挨拶の内容も濃すぎ。いろんな人が俎上にあげられて文字通りネタにされていく。しかもとても面白かった。その後先生の友人、元同僚(同僚だったときが僕の学生時代と重なっているため僕も少しだけ教わっている。しかし司会の助教授の先生へツッコむツッコむ)、教え子(僕は学部で終わったけど、実際に学者になっている人、現在大学院生として先生に教わっている人がそれぞれ話をした)からも祝辞。どの話からも感じられるのは深みとでも言うべきもので、漫然と日々を過ごしてしまいがちなことを反省。

とはいいつつも同期や先輩、後輩との会話もしっかり楽しむ。学生時代はデカルトじゃないけど、自分が何かを考えたいというのはわかっているけど、考えるということをどう形にしていいのかわからず、結果自分がどうあるのか、どうあったらいいのかがまったくわかっていなかった。今もはっきり形にはなっているわけじゃないけど、こうすればいいんじゃないかというぼんやりしたものが見えてきたのは間違いなく学生、それもこうやって今話している人たちのおかげであり、そのころのいわば初心を思い出せたように思う。本当は自分でモチベーションをあげ(て、更新し)なければいけないのかもしれないけど(だからやっぱり連絡手段は必要なんですって、という独り言をつぶやいてみる(とはいえ、現場でもかなり率直にいってしまいすみませんでした))。

その後先生から挨拶。退職後も何らかの形で活動を続けられるらしい。でも僕にはこれは至極当然のように思えた。こういうと失礼なのかもしれないが、定年による退職とお聞きしてはいたが、そのような感じがなく、雰囲気が若く感じられたから。もっともこれは学生時代にも感じていたことであり、その意味では変わられていないと感じた。活動への協力(できるほどのものも僕が持っているかはわからないけど、少なくともその意志はあるということ)を申し出る。

その後場所を変えて二次会へ。主役であるはずの先生が運転する車で連れて行ってもらう(ありがとうございました)。こちらでは主に現在院生をしている友人達と話す。今どんなことをやっているのかということを聞かせてもらう。さすがに4年経っているので必死に酔った頭を回転させつつついていく。少し感想を書いておくと、まず一番興味がそそられたのはデカルトについて。論文を読むといつも思うのが実はこのことで、もう一つの哲学史が出てくる可能性を秘めていると思う。例えばそこではスピノザデカルトの解説をしていることも新しい意味を持ってくると思う。おそらくはそのもう一つの哲学史のほうが正史とまで言い切ってくるとは思うんだけど、それはともかくとしてとても面白そうなので是非やってほしい。とはいえどちらかというと副産物的なテーマなので裏テーマとして注意したい。何より僕自身デカルトを面白く読みたいし。あとひぐらしハルヒネタについてはネタの軽さ(「ライト」という意味で)に反してかなり難しい印象(でもおかげで物理のくりこみ理論なんて言葉も引き出すことができた)。『ゲーム的リアリズムの誕生』に絡んでくると思う、みたいな話はしたけど、(1)平行世界を意識せず一つの生を生きるほうがメタ的世界を繰り込みつつ生きることよりリアルではないのか(その意味でドゥルーズの最後の作品が『内在、ひとつの生…』というのは興味深いと思う。二つの言葉を結ぶ句点は何を意味しているのか、「…」の意味は)?(2)ハルヒは日常と非日常が転倒しており、僕たちはいわば逆立ちした像が写っているレンズを覗き込みながら読まなければならないわけで、そのことにどう自覚的であり続けるべきか?ということについて考えなければいけないのではないか、ということについては書いておこうと思う(ただ、こういうネタを僕は意図的に避ける傾向があるので無責任ではあるんだけど)。そのほか多少ネガティヴな話もする。こちらはさすがに書くつもりはないけれど、まとめて言えることは応答する、ということの大切さというのは難しいんだということ。この友人は僕の学生時代にすでに(音楽における意味での)セッションという考えを打ち出しており、その重要性に気づいている。あと、経験したことから超越論的なものを引き出すときに陥りやすい「自分が-話すのを-聞く」ということにも敏感である。友人自身がフッサールの超越論的現象学に批判的であることを考えるとここに見られるある種の首尾一貫性には(僕自身の考えはともかくとして)納得がいく。だからこそリアクションに敏感であらざるをえないのだとポジティヴな話とネガティヴな話の両方を聞いて思った。この話(といっても僕がこう解釈しているだけなので違う話に取られている可能性はあるんだけど)は三人で話したけど結論は出なかった。僕がこういう話を重要視しているのと同様に、僕にいろいろ話すことで多少二人の気がまぎれてくれればよいのだけれども。

ということで更新しました>perdurantistさん。どこまで書くかってのは難しいですね。