思いつきの酒飲み話(ニーチェの師リッチュルによる『悲劇の誕生』評)

時々話題にもして、コメントもくれる大学時代の先輩(はてなで書いてるし、id: kuboakinoriさんとしておこう)とメッセンジャーで話したときのこと。その中の話にインスパイアされて考えたことを二点ほど書き記しておこうと思う(表題は本人がメッセンジャー時に酔っ払っていたため。別にそれ以上の意味はありません)。

一点目はクワイン(−デイヴィッドソン)の「好意の原理」とグッドマンの「ラベル」「例示」の考え方。好意の原理とは冨田恭彦さんによると「人の発言を理解しようとするときには、その人の言っていること、考えていることは基本的に正しいとせよとする原則」で、例えば何かを指さして「=‘{+*}」と言ったらその「=‘{+*}」指さしたものである(ことが正しい)とせよという原則のことだとのこと(『哲学の最前線』pp.16-17)。一方、「ラベル」は何かを指示するとともにその指示対象はラベルが貼られているそれ自身にも向かい(薬ビンにどくろのマークが張ってある場合、大抵の人はそれを毒薬だと解釈できる)、「例示」はある特性を備えているとともにそれを指示する記号作用のことである(見本がこれに当たる。ただし見本が何を例示しているのかはそのときどきによって違う)。(『世界制作の方法』、『記号主義』)。「好意の原理」ではあくまで論理的な「要請」にとどまっている感のあるものを、グッドマンの考え方だと記号作用的にそうならざるを得ないという論理的な「結論」になるのではないか…(と考えたいのだがうまく関係付けられない。直感的に書き出すとこういう時困る)。ちなみにマイケル・ハイム『仮想現実のメタフィジックス』によるとグッドマンの『世界制作の方法』はヴァーチャル・リアリティの教科書として読めるらしいですよ>私信的独語。

二点目はサールの読み直しについて。僕は前に『MiND』を読んだときにこう書いた。

が、このときに一つ問題になるのは世界の存在論であろう、とも思う。例えばサールは最終章で複数世界論を否定している(そのため、先述の三人称的世界なんて言葉遣いはサールとしては間違いだろう)。ただ、三人称的に記述できる体系、一人称的に記述できる体系、それを世界とみなしてはいけないのかどうかということについては難しい問題であると思う。それを考えてみた場合、僕としてはむしろサールのいいところはどのように一人称的体系と三人称的体系が結びついているか、その結びつき方を説明したところにそのよさがあるのだとつい考えてしまう。

そのときも思ったことなんだけど、サールの考えかたはあるところまでは順調に行くんだけどどこかで本人が楔を打ち込まざるを得ない、そんな考えかたなのではないだろうか(例えば言語行為論の分析それ自体は相当すばらしいものなんだけど、その言語行為論そのものに対する疑問が例えば『有限責任会社』になったりするわけで、だからまとめようとしたのは間違いではなかったのではないでしょうか>これも私信的独語)。