レヴィナスの考え方(『全体性と無限』を読んで)

 レヴィナスの理論ではアノミー形殺人(日本でいうところの「死刑になりたかったから殺人」)を批判することができないように思われる。これは「顔を見ない」のではなく、顔を見ることが意味をなさないところにその問題がある。では、どうすればよいのか。
 2つの脱構築的議論が考えられる。
 1つは、他者の顔は「汝殺すなかれ」から「殺すなかれと決められる汝もまた死ぬことなかれ」という論理にまで展開すること。
 もう1つは「死なないで」という顔のメッセージ性(僕はこれを「表情」と呼びたいと思う)という存在を認めること。当然これはレヴィナスの顔に反する。というよりも、顔に余計なことを語らせており、それは「他」に対する「同」の暴力であるといっても差し支えない。しかし、それにより人は社会的生を生きているのではないのか。かつてデリダは『全体性と無限』のテクストもまた「(批判対象である)フッサールの超越論的現象学」ではないのか、と書いた(『暴力と形而上学』)。ならば、超越論的現象学と平行関係を持つ現象学的心理学(イデーンあとがき、ブリタニカ草稿)、内世界的な人として、超越論的な顔ではなく、内世界人であるかぎりの表情に賭けることは許されないのか。
 これらの議論はレヴィナスに対して少しずつ、しかし入門書の略歴欄にまで「彼の自殺論には見るべきところがない」と書ききる小泉義之さんの議論がとても参考になった。しかし、自殺を真剣に受け止め、そして自殺体、風化した灰としての遺骨、幽霊、そういう存在論的次元をして語らしめよう、そのようなものとして生きるよう議論を展開していく小泉さん(RATIOの『自爆する子の前で哲学は可能か―あるいは、デリダの哲学は可能か?』、またははてなのcritical life)の突き抜け方とは、僕の回答は違ったもの―おそらくは中途半端なもの―になってしまっている。