自由

人としての自由と音楽としての自由、その二つの組み合わせとして私は音楽をしたい。
みたいなことを木村カエラさんが今日のラジオで言っていた。なんか感銘を受ける。

フッサールが草稿では「われわれなるものは反復可能性のなかで生きているのであり、歴史の反復可能性という形で自ら生き続ける」から「死に関する諸問題を前にしてもたじろぎはしない」(「自然の空間性の現象学的起源に関する基礎研究―コペルニクス説の転覆―」、邦訳pp.291-292を順序を入れ替えつつ引用)といいつつも「きわめて完全な自発性を以って初めて自分の感情を外に出し、かすかな端緒を実感したそのとき」「私が終着点に到達し、私にとってはすべてが終わったまさにこの今となって、私は、すべてを最初からやり直さなければならないということを知っている…」「死ぬのがこれほど耐え難いものであるとは思わなかった。」(ビーメル「人間性の自覚としての哲学」への序論、邦訳は『フッサール哲学における発生の問題』p282から孫引きした)と書き付けざるを得なかったことが思い出された。「個人」をさまざまな層で捉えながら(友人、家族、社会…)一方で他人や社会といったものに自由を委ねていくことが難しく、でも生きていくってことではないかと思ったり。さまざまな層でとらえる、ということを考えた場合、習慣といった経験的なものから時間や空間といった超越論的なものまでを考える必要があって、そのために経験的でありながら超越論的現象学の理解もしていたのがシュッツなのかもしれない(前述のコペルニクス論文はシュッツが編者となっている。『幾何学の起源』と並んでフッサールの最終形而上学みたいな地平にある論文をなぜシュッツが編者になったのかは最初、単純に疑問だった。今は少しわかるような気がしている)。