旧交を温める。

このところの10日間ほどは、学校で一緒だった人たちと会うことができた。久しぶりに会ったのにいろいろお世話になって(買い物、道案内、食事、エトセトラエトセトラ…)、本当に感謝している。「持つべきものは…」と言って甘えの言い訳にしてはいけないのだけれども。

友人との会話より、某国営放送の福祉特集でサイバラ画伯が出ていた回を2人とも(示し合わせていたわけでもなく)偶然見ていたことを知る。完全に番組の目的を飛び越えるような画伯の出演は友人も感心していた。事実に深く関わることで得られる真実、そこにリアリティ、というとうすっぺらいのだが、凄みが出ていた。
ちなみにこの友人との会話の後、僕は偶然佐伯日菜子さんの「ギプス」を見る機会に恵まれた。ギプスという拘束具とそれにより他人を拘束してしまうという、佐伯さんが持つゾクゾクする魅力にあふれた作品であった。そう言えば友人とはかつて佐伯さんが「エコエコアザラク」(これも独特の拘束(というよりは閉鎖)感に教われる作品である)に出ていたことについて話したこともあり、記憶が重ねあわされていく錯覚に襲われる。
その後、佐伯さんのサイトを見ると、ここでも重ね合わせがあった。佐伯さんが読んでいた本。この、偶然の再会、記憶の混濁、それを導く意識の流れ、その他もろもろがあって、今僕の手元には『遺稿集』がある。それだけの話なのだけれど。

佐伯さんついでの佐藤女史への記憶が呼び覚まされる。405さんと705さん。そのおかげで新訳サイレンが出ることを知る。個人的には1の新訳でオッケーです。1の方が怖いから。ストーリーがどうなるのか(1の後日談的要素を含むのか、全く新しいストーリーになるのか)、どちらにしろ手を加えにくい話(らもさんが何かの中華劇に手を加えるときにそう書いてた気が)だと思うのだけれども、まあ僕が気にすることではない。

そう言えば某国営放送は「サラリーマンNEO」をやっている。wikipediaかなんかはらもさんのどんぶり5656の流れを組んでいる、みたいな解説を書いてたと思うけど、これも友人の話に出てきていて、絶賛されていた。どこまで製作者側(出演者ではなく、組織に所属するスタッフ、位の意味で)の想定の範囲内かはわからないけど、見たときには明らかに製作者側の意図をはみ出している感じを引き起こすあたりですでに製作としては当たりだと思う。友人とはそのはみ出し方からモンティ・パイソンにまで話が及んだが(こう話の引き出しが似通っているヤツと話すのはとても楽しい)、僕的には視聴料を払うのにやぶさかではありません、今のところ。