sens

以上、記憶と意識の徒然なるままに出来事を記したが、ここからはその会話の中で印象に残ったことを。
友人たちの中で何回か出た話として、デカルトの「良識」があった。デカルトによれば良識は誰しもが「十分に具わっていると思って」おり、「自分が今もっている以上を望まないのが普通」だとされている(『方法序説』、岩波文庫版p8)。他の人から見れば非合理にしか見えないことでも、その人の良識ではそれが妥当な判断であるということ、このことはなかなかに面白いことだと思う。というよりもそういうものとして良識を考え、個人の事情に従って(肯定して)良識の使い方をともに探っていこうとすること、これが大事なことであり、そういうことができた人を「分別をわきまえた人」というのはできすぎている話のようにも思える。
僕としてはこの良識という考え方を踏まえ、2つの方向を考えている。
1つは人の発言、表現について。その表現や発言が正しいものかどうかわからないとき、それを正しいものだと仮定しながらでないと話が進まないこと。人は何かを隠すために話すのではなく、何かを表現するために話すのだということ。これをより広い事象、例えば<法>とかがその原理原則に則っている(それは広い意味で法が<性善説>起源であることを示すことにはならないだろうか。法家思想とかの方が馴染み深いので僕自身なかなか実感が湧かないけれど)ことを改めて考え直す。
また、その場合2つめの方向が大事になる。僕は前々段落では「非合理」という言い方をし、前段落では「正しい」という言い方をしたが、この間には真偽のみを重要視する考え方が横たわっている。僕としてはそうではないのではないかと思う。「非合理/合理」だけでは人の不完全さのみに目が行き良識を考えるといったことができなくなるように思うし、真偽は正しさに比べてあまりにも狭すぎる射程しかもてない(この辺の議論はグッドマン『世界制作の方法』、エルギンとの共著『記号主義』から着想を得ている)。そもそもデカルトが「ただしく判断し、真と偽を区別する能力」を「ほんらい」の意味での良識、理性としてしまった(『方法序説』、上掲書)。それはそれで大事なのだけれども、それだったら理性をそっちにあててもらって、良識という言葉がわざわざ使われるということの意味を考えなければならない。良識、原語ではbon sensとなるけれども、そのsensというところに着目した場合、その直観的な、まさにセンスというしかないものであると同時に、それはドイツ語のSinnや英語のsenseでは訳しきれないところがある。「一面に社会的、常識的とも考えることができる」「概念に制約せられない直観である」ということを指摘し、ビランやベルグソンにまで脈々と受け継がれているけれどもそれはデカルトにもあるのではなかろうかということを書いたのは西田幾多郎だった(「フランス哲学について」、『西田幾多郎随筆集』岩波文庫より。ちなみにここに出てくるようなメンツをもう一度捉えなおしたのはメルロ=ポンティであり、『心身の合一』講義録が出ている)。この点においてある種のポストモダンな議論とフランス哲学が交差しているように思う。考えるべき出発点はそこ、なのかもしれない。