草稿(以下ry)

著者の言いたいことというのは何か?小林秀雄ベルクソンが死後出版を禁じた理由として、たしかもう『道徳と宗教の二源泉』で言いたいことは全部言ったから、という趣旨のことを書いていたと思う。しかし皮肉なのはこの理由を論じている部分というのは、小林秀雄自身が死後の出版を禁じたベルクソン論『感想』中でのことであるということだが。また、この理由を小林自身にトレースすれば『本居宣長』で(この時期の)書きたいことは全部書いた、だから見当はついたが書き切るところまで行かなかった『感想』(岡潔との対話による)を死後出版してほしくない、という理屈になるのかもしれない。
しかし言いたくないことをなぜ書くのか?いや、書いてしまうのか?
デリダ脱構築の名で、内田樹さんや僕の友人がフーコーから学んだという

歴史について考えるときには、「なぜ今あるような出来事が生起し、それと違う出来事は起きなかったのか」という「起きなかった出来事」が排除された分岐の条件について想像をめぐらせること

「僕はどうしてこう考えて、こう以外には考えられないのか?」

(上部分は内田さんのブログから、下部分は僕の友人のブログから。ほぼ同じことが書いてあって驚いた。)

こととの奇妙な一致。草稿とは何か。これまでの草稿についての認識でかまわないのか、あるいは認識を改める必要があるのか。