友人との会話

前連休中に友人と会い話をする(もうおめでとうございます、って書いてもいいのかな?)。専門的な話もすればそうでない(けれども、結構大事な)話もできるところはさすがだと思った。ただ、話をすすめてわかったのはどうもテキスト平等主義的というか、言葉で書かれたもの、あるいは話されたことにおいてそれが専門的な話であれ、普通の話であれ同じように読めるようだった。それだけになぜ他の人たちが専門的な話になると腰が引けてしまっているということが、その友人には不思議で仕方がないらしい、ということもわかった。これには二つの点で(肯定的な意味で)驚いた。一つはテキスト平等主義的に読めるその才能。もう一つはこの話が友人のこれまでの研究がもたらす帰結とほぼ一致しているように思えた、その首尾一貫性。ところで、専門的な話(抽象的な話)をわかりやすくしようとするならばどうすればよいのか。通常は具体的なレベルに話を落とすことが考えられる。この話を使えばこういうことができますよ、というように。しかし、このやり方はこの友人にはできないだろう。それは別物の話でしか映らないだろうからだ(高見沢潤子のこれまで書いた作品についてわかりやすく話しなおしてほしいという願いを兄である小林秀雄が即座にはねつけた話を思い出した『兄小林秀雄との対話』)。そこでもう一つのやり方がある。それはその難しい話を難しい話のまま自分が面白いように話す、ということだ。専門的な話をもっともっと専門的に、抽象的な話をもっともっと抽象化する、ということだ。そのようにして他の人に話が届く、ということはよくあることだ。おそらくはこちらのほうこそ「具体的」と考えられることもあるだろう(とか書いてたら友人のブログにまさにそのような趣旨の記述があった。というかそもそも僕と共通の師匠に当たる人がある本を出版したときのインタビューでそういうこと言ってた)。東浩紀さんが『存在論的、郵便的』中の注でガタリアジャンスマンについてものすごく抽象的だからよいのだ、みたいなことを書いてたけど、そういう方向は確かにある。またこの考え方からいけば具体的という言葉ではなく、経験的という言葉を使ったほうが適切である場面もまた多いのだろうと思う。さらに言えば、その両方をとらえた「具体的」な話、抽象的にかたりつつも経験的であることは可能だと思う。かつてサルトルがコップの見方一つで青ざめたように(結局この話に落ちるのかと思った人、あなたは正しい。僕自身この話に落ちてしまったことを若干後悔しているのだから)。

もう一つは僕の世界の捉え方についての文句(?)。僕は今ここにいるという必然性をことさら必然的であるようにいう必要はない、というようなことを話したんだけど、どうもそうは考えたくないらしい。そう考えると全てが必然的にならないか、それはちょっとシニカル過ぎないか、ということらしい(たぶん僕がラプラスの悪魔にがんじがらめにされているように見えたのだろう)。このことについて反論というか、整理をしてみたい(って、この話をした前の晩に違和感あったらその場ですぐ話したほうがいいよ、とか話してた自分がいたことを思い出してちょっと恥ずかしい。でも、話してたときにも違和感は表明してたから今回のはその発展だ、と思うことにする)。
一つはまずこの必然性についての考え方を教わったのは他ならぬこの友人からだ、ということだ。フッサールハーバーマスにシンパシーを抱いていた僕がベルクソンルーマンの考え方を教わらなかったら(批判されなかったら?)こういう考え方はしなかっただろうと思う。


「例えば Drucilla Cornell, The Philosophy of the Limit, Routledge, New York, 1992 の第5章で展開されている、「ルーマンの〈オートポイエーシス〉は常に現在から出発するがゆえに、未決の未来を、別の未来の可能性を、現在へと還流させることができない」という趣旨のルーマン批判は──著者がルーマン理論(だと考えているもの)を踏み台にして打ち出そうとしている主張そのものは説得的であるにもかかわらず──その種の先入見に染め上げられているとしか思われない。この点に関しては本書第4章を参照されたい。「未来を考えうるのは現在における作動によってのみである」というルーマンの議論が、未来の可能性を閉ざすどころかむしろその逆であるということがわかるだろう。」
馬場靖雄ルーマン『近代の観察』訳者あとがき、p217。電子テキストとしては酒井泰斗さんの日曜社会学http://socio-logic.jp/baba/preview/modernity.phpより)


「大変おもしろいのが、廣松(渉さん:引用者注)が当時僕に言ったことで、「ドイツの極左は、ハーバーマスではなくルーマンを支持している」と。一九七〇年台初頭に二人は論争した。ハーバーマスは、「システムの外がある」と見做す、当時は民青的なヌルさをもったフランクフルタールーマンは、「システムには外がない」とする当時無名のシステム理論家。そうだよ、確かにシステム理論はブントに馴染みやすい。なにをやっても物象化の内側。やっても物象化。やらなくても物象化。ならば、やるっきゃない。」(宮台真司宮崎哲弥『ニッポン問題』朝日文庫版p208、宮台さんの発言より)


しかし問題はおそらくこの先にあるのだろう。先に引用を行った意図は僕がルーマン(を経由した人々)の考え方に影響を受けているということにあったのだが、両方の引用箇所にあるように、この考え方をした場合現在において起きる何かが問題になる。先ほどの話を思い出せばその現在において起こる何か、そしてその何かが引き起こす未来さえも必然的なものである(として無抵抗に受け入れなければならない)と僕が考えているように思われており、そここそが友人が僕に文句を言いたいところなのだろうと思う。僕はそこまでは思ってないし、何かを起こしたり、何かが起こるということについてはそれが起こった後であれば受け入れなければいけないが、起こるというそのことに対しては何もしなくていいとは考えていないのだ。しかしそのことを言おうとすると難しい。これまでの話の流れからして僕が決断する、と安易には言えないのだ。おそらくは(1)僕、「今ここ」と書いたがカントのように時間空間を前提した上で設置される僕という考え方を変えなくてはならないのかもしれない(嘉門達夫さんのラジオじゃないけど「時空を超え」なければならない)のと、もう一つは(2)何かを起こすこと(行為)、何かが起きる(出来事)ことについてそのものを考えなければいけない。

(1)に関連して言えば、僕が「必然性」と書いたように様相の問題が出てくる。しかし様相論理学は「これからの時間」を扱うものではない。ヒュームやクリプキの様相の問題は経験論的というか、これまでおこったことがなぜそうおこったのかという問題設定だと僕は理解しているが、それに依拠しつつもこれからの時間について考えることが必要なのだと思う(って書いたらこれもすでに書かれてた!)。(2)については行為や出来事について勉強しなければならないということだ。

後はどういう本を読むのかということについてブレーンストーミング的な話、および校正をした。