メモリという比喩

ここまで書いて思い出したことがあるんだけど、要するにこれって、柏端達也さんが『行為と出来事の存在論asin:4326101172で書いていた「メモリを大量に必要とする」(まえがき)ってことなんじゃないだろうか。さらに思い出してみれば前述の内田樹さんは知的肺活量みたいなことをどこかで書いてたような気がするし、東浩紀さんもアプリケーションを複数立ち上げるような思考(要するにこれも「メモリを食う」ことの比喩ではありますよね)みたいなことをどこか(たしか旧版『郵便的不安たち』の中で)で書いてたと思う。まあラカンには極悪レトリック読解というオプションがついてはいるけれど、やっぱり現代哲学ってのは単純に難しい(要するに小手先だけでなく、経験をつんでレベルアップしろっていう)ことなんだといまさらながら気がつく。

ジャック・ラカン『テレヴィジオン』asin:4791751884

一度目だけは通したけど、全然わからなかったこの本。今回、最初の部分が、ちょっとだけわかったのでメモ*1
通常自分が文章を書くときは、「わたしは…と考える/思う/信じる/知っている」という風に書いていくものである(と「考えていた」)が、どうもラカンとしては「「あなたは」…おもう」と書きたいようなのだ*2
これにより、2つのことが帰結する。
1つは「あなたは…とおもう」と書かれれば、その時点で「あなた」である読者は反応せざるを得ないということであり、それはこの本を読むことが「著者の問いかけに答える自分」を勘定に入れて読まざるを得ないということである。だからこそ、ラカンはこれを分析家相手に行う、少なくともそこにもぐりこもうとするだけの人を対象にしたセミネールと違いはないと明言している(pp.16-17)。*3
2つめは、同じことのようだが、本、文章という体裁をとっている以上、どうしても「わたしは…とおもう」と読んでしまう。つまり、この本を読むときには常に「わたしは「あなたは…とおもう」と…」というように読まなければならない(読んでしまっている)、ということである。ここでもう2つ指摘しておくと、1つめ(2−1)は、「あなたは…とおもう」のせいで、「わたし」がどうしているのかが見えないことにある(だから「わたしは「あなたは…とおもう」と…」と書いた)。つまり、従来の「わたしは…とおもう」方式で読むことができない本となってしまっているのである。2つめ(2−2)は、いわゆる行間が複文構造をとっているため、非常に頭を使う。それは頭のよしあしというよりは、長い言葉をいちいち反復しつつ読まざるを得ない、記憶と思考を両立させる必要があるということでもある(なんか落語の「寿限無」みたいだな)。
ここまで書いて、すでに疲れつつあるんだけど、これが正しいかどうかはわからない(だって、ラカンは「わたしは…とおもう」方式で書いていないんだもの)。確かめるためには、ここまで書いた複雑な読み方の末、本書と(押し)問答を続けていくしかない。こうやって、人はラカンを読んでいくことになるのだろう(少なくとも、ここだけはみんながラカンを読むことによって仮説の位置は確保される)。

*1:しかし、最初の部分が一番難しいのはどうもラカンを読む人にとっては「常識」のようで、後述の内田さんのほかに同書に所収されているミレールやカトリーヌ・クレマンの本もこの『テレヴィジオン』の冒頭数ページを「女性」相手の「対話篇」風に書いている。

*2:「おもう」と書いたのは考えることも、信じることも、知っていることも、含ませたかった(だが、完全に一致しているわけではない)ため、大学時代の某先生の言い方を拝借した。余談ながらこの本を読んで「全然わかりませんでした」と正直に話したのもこの先生にだったりするが、そんなこと言われた方はどうしようもなかっただろう。

*3:内田樹さんは「現代思想のバーナード犬」(『ためらいの倫理学』所収)において、ラカンの『エクリ』の冒頭を引いて、これはラカンが「これはものすごくむずかしいからね」といいつつも「ラカンを読め」と言っているのだ、ということを書いているが、要するにそういうことだ(著者の問いかけに応じないやり方はこの本を放り投げるか、冒頭を無視した、かつての僕のような益の少ない詠み方をするかしかない)。

ネットで

いろいろ昔の作品を調べたりしているのだが、時々放送コードにひっかかるようなところがあって気になる。
(僕が気になってるのは『買物ブギ』、『チャージマン研!』、外国ではモンティ・パイソンなど)

マンガなんかだったら手塚治虫さんとか藤子(F)不二雄さんとかの全集版ではそのまま載ってたりするけれど、どうなんだろう、著作権とかに見られる人格の扱い方とコードの問題点とかは統一した見解はないのだろうか。著作権、というよりコピーライト、つまりコピーを出せる権利と著作者の人格(だったっけ?)と、こういったコードに関係する扱い方。言葉に関する考え方が定まってないこともあり(例えば、放送コードというか自主規制により、表現方法が変えられてしまうことは容易に予測できる一方、少なくとも表向きにはある言葉は流通させない、とする戦略も理解はできるので)、ここら辺、どうすればよいのかわからないけど、今のように、著者が亡くなれば「当時のなんたらかんたら」と巻末に記載するだけでオッケーなのか、ある時点を持ってこの表現方法に問題があるとされた場合、そこに誰が、どう対応するのかとういうことについては、人格、著作権との問題も含めて立ち上がってくるような気もする。

弾幕系の次は干渉系?

ダライアスの最新作が出るそう。作曲もOGRさんらしいし、要注意ということで。
ファミ通の記事を読む限り、Gダライアスのレーザーシステムを踏襲してるのかな、とも見えたが、Gダライアスの時はレーザーを次々干渉させていくのが醍醐味だっただけに(というよりそれなしではクリアがほぼ不可能)、より洗練されたシステムを希望したい。

そう言えば怒首領蜂大復活でも、レーザーによる干渉が攻略の起点になっていたけど(ちなみに僕はようやく1週できたくらい)、弾幕系の次は干渉系のシューティングが流行るのかもしれない。
というよりは、干渉系と弾幕系とは両立するがそこをどう考えていくか楽しみ(大復活がそうだし、Gダライアスではレーザーを出すまでに若干の弾避けが必要とされた。クリオネなんかは弾幕系に入れてもいいような気がする)。

さっきの友人の話で思い出した

それぞれは全然住所、思想は違うが、年齢と大きい専攻が一緒である別々の友人がいるのだが(彼らどうしは友人ではない、と思う)、彼らに共通の話題としてあがったのが『よつばと!』と南方熊楠だった。この2つを押さえておくと某学問を志す人たちは話についていけるかも(というよりは、単に「類友」なだけか)。

コンビニにて

あずまんが大王 補習編」『ゲッサン』連載、をいまさらながら読む。『よつばと!』はあまり読んでないけど、それでもOSは『よつばと!』でソフトは『あずまんが大王』を走らせてみました、というような感じ。よく「キャラが勝手に動く」のがよいマンガの基準であると言えるんだけど、当然キャラクターもまたマンガの一部になる。その中で、よつばとOSにおいてはキャラクターが動くのにもかかわらず、キャラクターを含めたマンガという表現の「間」がまたキャラクターの動く余地を十分に残しており、だからキャラクターがよく動くようになっている。ちなみに、作者であるあずまきよひこさんは以下のように言っている(『あずまきよひこ.com』内、08/12/05の記述より)。

(『よつばと!』がアニメ化されてない理由についての言及)
で。えー、なんでよつばがアニメになってないかです。
一番大きいのは「よつばと!」をアニメにするのは、とても難しいってことです。
とりあえずアニメにする、ならできます。

例えば、よつばが綾瀬家に遊びに行くってシーン。
よつばがドアを開けて走っていって「こんにちはー」と言う。
カットをポンポンといくつか使って、数秒で終わりそうなシーンです。
それでいいなら出来そう。

でも、「よつばと!」なら、よつばがよいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、
でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き、よっこらしょっと重い玄関のドアを開けて、元気よく家を出て行く。
そういう、普通アニメでカットされそうな描写もやらないと、アニメにする意味が無いと思うんです。
で、こういう日常の演技描写はアニメの最も苦手とする分野です。

(余談ながら、僕の友人の一人は、『よつばと!』をアニメ化するなら、よつばだけ実写でないといけない、みたいな話をしていたことがあるが、上記のことを考えるとより腑に落ちる)

比較すれば、かつてのあずまんが大王では、まだキャラクターがマンガという表現とは独立に動いているような印象を受けてしまう。

このOSの中で、もともと親近性が深い大阪がよく動いているのは自然なことのように思われる。大阪は一人で間を支配するようなキャラクターだったが、今回はその支配権をマンガに託しているだけでよいのだから(この意味で、よつばが間を支配している、というよりは十分に間が書かれたマンガの中で動いているだけ、という点で二人の行動パターンはだいぶ違うが、二人の属する世界、というかOSは同じだ)。

ただ、この中ではツッコミ役がとても動きにくい。今回の第1回目ではそれがかなり露骨に出てしまっているような気がする。しかしこれは1回目しか見てないわけで、これからの連載でどうなるのかが興味深い。

ヴィレッジバンガードにて

最後の話が特に面白い。人が発する何らかの感情のもとが、もし、怖さのもとに転化したら…。『ぼのぼの』とかだとそれが笑いだったりするんだけど。

巻頭インタビューに佐藤嗣麻子さんと小島文美さんのそれぞれを配置。

わかっていらっしゃる。