カント『判断力批判』が読み終わらない。読んでないのだから当たり前、といえばそれまでなのだが、難しい。「天才の語調からは程遠い」「学校的方法」を『純粋理性批判』から採用して以来(カッシーラーの本からの孫引き)、その文体にいい加減飽きが来た。しかし中には目を引く洞察もあって、その洞察について考えているとその難しい文体に連れ戻されてしまう。こうしてなかなか読めない日々が続いているわけだけど、そんな状態でも転移というか、カント的な物の見方を知らず知らずのあいだにしていることに気づかされた。

美学的観点について。というとカッコいいけど、要するに僕が桜を見てちょっと感動して考えたこと。僕が美学的フレーズとして気に入っているのは小林秀雄の「花の美しさというものはない、美しい花があるだけだ」と、「これがファシズムが進めている政治の耽美主義化[美的知覚化]の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ」との2つである。美しいものの美しさはそのものがあるからなのに、桜の「美しさ」だけが一人歩きしてしまい、そしてその美しさは知らず知らずの間に別の何かに利用されてしまう。しかし僕が桜を見て感じたのはその桜の美しさが自分の中で一人歩きしようとしているその感覚だった。カントの美学のすごいところはその美しさが一人歩きするのはなぜなのかということを考えているところにある、ように思う。カントは美を主観的でありかつ妥当性が要求できるものだと考えた。主観的であるということは、どのように美しさを感じても、どう美しさを表わしてもそれは美的判断としては間違っていないということになる。この間違ってなさにより美しさは一人歩きしてしまうのではないだろうか。そしてそのくせ美しい「もの」の意味を美しさにまとわせてしまう。たとえば桜が散り、花吹雪となるそのはかなさが美しさをまとい、なぜか「はかない=美しい」という図式が成立してしまう(実際僕もそう感じた)ことが面白い。また、カントは「もの」の大事さも忘れない。主観的な判断がされるはずなのに客観的に判断されるものとして「もの」(芸術作品)を提示してしまう天才について論じているところがあるのだが、僕はこのことからカントが美しい「もの」があるということの大事さを見失っていないように思う。

ちなみにベンヤミンの議論は二つ指摘が必要になる。一つは僕の読書の順番によりカントに若干の優位があるように考えてしまうという誤解に対する注意であり、もう一つはベンヤミンが単純に芸術作品論として読まれてはならないと思う。彼はここで芸術を政治化したテキストを書いた、とも言えるからだ。そしてベンヤミンのこの考えからカントの考えにさかのぼるというように考えた場合、カントの判断力批判は美がなぜ政治と結びつくのかという問題設定のもとに読むことができるように思う。政治もまた客観的に答えが出ていないことをどう主張できるのかという問いだから親和性があるのかもしれないが、そういったことも含めてどう考えればいいのかということまで考えた場合、アーレントのすごさがちょっとだけわかったような気がした。

目的論について。これは環境問題に対して感じた違和感について納得させてくれた。カントは自然はそのままでまわるだろうという直観も、しかしその自然をとらえようとすると必然的に目的論的な考え方を導入せざるをえないということもその両方を肯定している。また、そしてその目的論的な考え方は反省的判断力、つまりこれもまた主観的だけど妥当を要求する類の判断であることを丁寧に論じている(僕が大雑把に要約している)。人が環境問題を論じることの難しさは人が環境の中に生活しているということ、そしてその環境はたとえ人がいなくなっても人がいない(住めない)環境として存続するということにあると思う。だから環境問題は結局自分のエゴを必然的に含むものになる(エゴからエコへ、はありえない!)。そこを無視して話は進まないんじゃないの、という違和感、同時に環境破壊の現況である人間が滅びればいいということについての違和感、それらをカントの自然の目的論で思い直すことになった。