資源としての社会的な倫理?

最近木村剛さん(経済評論家?)や白田秀彰さん(著作権法法学者)のコメントにこぞって「匿名性の倫理」みたいなことが書いてあることに気づく。前者は掲示板について(『月刊 木村剛』)、後者はwinnyについて(『アスキー・ドットPC 2004年9月号』)。

匿名的に何でもできることを悪用しすぎるとかえって匿名性に対する規制が増えてしまう、というような話。一方で『茶色の朝』(個人的には高橋哲哉さんの解説よりもヴィンセント・ギャロが挿絵描いてることのほうが驚きだったけれども)もちょっと読む機会があったのだが、だんだんと規制されていく社会に対して、決してそれが納得できないことではない(むしろ自らがそれを望んでいる部分がある)ということが描かれていた。

個人が望む社会と結果的に実現されてしまう社会がずれてしまうということ自体はよくあることだったが、個人が望むことが一応通る社会でもそうなってしまう、ということが社会学の動機のひとつであるような気がする。匿名性だって、社会が膨大化したことによる必然だと考えられる(いちいち記名したものばかりを流通させるとすればそのコストはでかいのではないか)。

匿名性の倫理ということも、個人が望む(そしてそれが一応の実現をみる)社会と結果的に実現されてしまう社会がずれてしまうということの問題も、そこまで考えなければいけなくなっていると思う。つまり、意図的に資源として匿名性の保護、社会への観察を続けなければいけなくなってしまったのではないだろうか。そしてそのことは面倒くさくなってしまっているということなのか、それともそれはこれまでの変化(それこそ情報技術の変化)に目をつぶったことのツケなのだろうか。前者であればヒトの能力の限界を超える情報処理(これはコンピューターを使ってもなお残るヒトの手間が限界を超えてしまうということ)方法を必要とする社会自体を何とかしないといけないだろうし、後者であれば早急に対応する必要がある。今のところ両方のアプローチが必要だとは思うけれども。