しかし

僕はものわかりが悪い。賭けという形式では考えていなかったが、時間と様相がどうも関係あるのではないか(その意味でフッサールの『経験と判断』はもうちょっともの足りなく感じた)、とか考えてたら前に教えてもらった九鬼の文章にまさにそういうことが書いていたし、かっこいいの考え方はまさに「いき」の問題系でもあるわけだからすでに問題は準備されていた(九鬼だけではなく、紹介者からも)。九鬼周造をどうも読まなければいけない気がしている(『いきの構造』はよくあるんだけど、偶然性の問題は文庫化されていないんだろうか)。

で、さらに思うことなんだけれど、ものわかりの悪さというのは、実はパースのアブダクションを体験する際についてまわる感情なのではないだろうか(一応いっておくと自分の頭の悪さを正当化したいわけではない…といっても正当化したいんだろうな)。つまり、q、pならばq、ゆえにpという形はqが与えられてpがリアリティを持つ(論理学的にはアブダクションは正しくないそうなので、とりあえずこういう言い方をしておく)、そういうことは証明の距離が近ければ近いほど「すでにあった」という感情としてうかんでくることにならないだろうか。