『賭博/偶然の哲学』檜垣立哉著、河出書房新社、2008。

まずはこの本がリーマンショック後の不景気の中で、相撲の八百長騒ぎがあり、ギャンブルによって身を持ち崩していく人たちのニュースにあふれかえっている、そんな中に出版されたことに驚く。

(追記:とか書いてたら「厚生労働省」(p156)事務次官を狙ったテロみたいなニュースが出てきていてさらにリアルさが増した。もう驚くを通り越してちょっと怖い)。

同著者による本は読んできたけれど、さまざまな意味で続編ともなっている。解けない問い(NHKブックスドゥルーズ』)は賭け、と再定式化され、西田の矛盾(講談社現代新書西田幾多郎の生命哲学』)は九鬼の偶然性の問題へとリンクしていく(その九鬼がパトロンとなりリレーすると「古風で実存論的な響き」(p7)サルトルになるのはちょっと面白い)。また、フーコーの統治性についての議論はリスク社会との対比の中でより攻撃的、『生と権力の哲学』(ちくま現代新書)でいうところの毒を引き出してきていく(というよりも筆が滑っている箇所(でもこれ絶対本人楽しんでいるな)がこれまでより多い。そういう意味では最初に読むべき本になったのかもしれない)。

2つだけ論点をピックアップしておく。
リスク社会についての論点は面白かった。しかしここでは最初のほうに出てきたリスク論である、責任についてデリダレヴィナスが論じられてきたあたりについて勝手に蛇の足を付け加えておこう。

「責任とは何であろうか。デリダレヴィナスのある種の姿勢に反していえば、責任をとることとは、そもそもリスク計算を行うことに依拠しているものでしかないのではないか」(p62)。

これが非常にリアルなのは、現代日本においてそれぞれの有名な論者である東浩紀さん、内田樹さんの文章を読んでて思ってたことと重なるからだ。つまりそれはリスクが関係ない状況について議論を進めるとき、どうしてもリスク社会という言説が(踏み台的否定として)前提されるということだ。東浩紀さんの『情報自由論』では計算不可能なものが具体的になってきているとして、内田樹さんでは計算可能であるリスクではない危機としてデインジャーという概念が使われているのだが、その定義上必然的にデインジャーはリスクを前提する。

ハイデガーですら『存在と時間』ではそうだと思う。死と向かう存在は死を覚悟してはいるが、それにより死ぬまでのときというわからないときを我有化している。それは死ぬまで自由な時間がある、時間は自由になされるべきだという考えを前提している。死ぬことなんてわかっていないのに(追記、感謝:ある友人と話したときには、そのときすでに死んでいるという可能性を示唆された)。モモから逃げてきた時間泥棒たちはものすごい、長さのわからないパイプを作って同じように人の時間を盗み続けているのかもしれない。引用の引用であるため文脈ガン無視ではあるが、小泉(こういう言い方するのは義之さんかな?)さんの言葉を引いておく。「ハイデガーのロジックは保険会社の戦略と同じ、戦後資本主義のイデオロギーだ」(村上靖彦さんのブログより)。

追記:元の文章が小泉義之さんのサイトにあったのでリンクしておく。本当に文脈ガン無視だな。(09/3/16)
「保険セールスマンとしてのハイデガー」

一方、p65の「負け組」について。
勝ち組/負け組という構図そのものが賭博という図式では無効化される。されるのはわかるけれど、そこで文章がつながってしまう(図式がつながってしまうように見える)ということ。ライルをもじっていうならカテゴリーミステイクはしていないけど、カテゴリーミスリーディングにはなっているのではないだろうか。

追記。あとでちゃんと読み直してみたら(つまりちゃんと読めば)著者が細心の注意を払っているのはよくわかった。ただ、本当は(つまり賭けることに忠実であるなら)注意を払う必要はない。つまり、カテゴリーミスリーディングは(著者のほうではなく)この問題のほうに内在している。

さらに追記。この後に『現代思想』にてドゥルーズの特集号が出ていた。小泉義之さんと対談されていたが、何この超攻撃態勢。でもうれしかったのはサイエンスウォーズをちゃんと受け止めてくれていたということだろうか(イデオロギーについての態度は保留しておくけど。というよりある程度ものを知ってて初めて攻撃力が増す攻撃なので)。