モッシュのその後

id:kyudouさんがモッシュについて、とてもよい文章を書いている(といっても僕はモッシュをこの文章で初めて知ったわけだけれど)。そういえば最近印象的だったのがめざましテレビチャットモンチーが早稲田かどっかでライブをした際に殺到するファンがいて(たしかそれでライブが中断してた)を制して、みんなライブを楽しみましょう、みたいなMCをした、ということがニュースになっていた。

これって言ってみれば演奏者側からのモッシュ終了宣言なわけで、そこが面白かった。

余談ながら僕はid:kyudouさんの文章の中で唯一違和感を覚えるのが個人的/共有的リアリティといったところ。おそらくは個人的という言葉によって「作り出す」というイメージを読み込むべきなのだが、それでは「観客内で<共有されているモッシュ>というリアリティ」、もう少し言えば、箱の中でのモッシュ横浜アリーナでのモッシュの違い、そういったものをとりのがしてしまいかねないのではないだろうか。

追記。僕はここで「享受」という(また古臭い)考え方を対案として出そうとしていた。だけどこの言い方もまだまだだめで、享受という概念の根本的な組み換え(享受は作り出すという能動的意味を秘めているということ。それこそフッサールの言う受動的総合に近い)が必要なのは間違いない。

追追記。ルーマン『近代の観察』(馬場靖雄訳、法政大学出版局)p150。「文化は個人の文化として(自分自身を枠づける、規範化するものとして)把握される。」また、「文化は自己の境界を、またその境界を横断すべしとの要求を、この《それはちがう/それもやはり》という経験のうちに見いだすことになる。」モッシュという文化(それはあきらかに個人的リアリティとして自己を枠づけていたのだから)から目をそむけないこと。むしろモッシュ(が被った変化)のほうからこちらがどうなったのかを考えること。享受は未だこちら側からしか考えていない。

閑話休題

しかしこの一連の流れがすべてCX系で行われているということには注意しておきたい(ミッシェルの話に振られていたのは『HEY!×3』だった)。この限定的な視点を取ることはさっきの小室哲哉さんをも非常に近づける(プロデューサーという「企画」を生んだH jungle with T!)。しかしそれと同時に非常に遠ざけてしまう。視点を固定することでもうひとつの視点を思い出さなければならない(『ASAYAN』で引き継がれたプロデュース企画の流れ)。そうしないとニュースの音楽評論家と同じく、モーニング娘。を忘れて(つまり、流れの意図的な忘却。もちろんある歴史を記述しようとすれば忘却は避けられないが、音楽評論家が作り出した歴史自身でのワンクッションになるべき契機を忘却することはどうかと思う)になってしまう。

追記。いわゆるメディア(出版局、放送局)ごとの性格の違いはこれまで考え方によって放送内容の違いが説明されてきたように思うが、これからは放送内容の違いからメディアの違いを分析していくことも必要なのではないかと思う。

追記の追記。放送内容からのメディアの性格づけ、という発想がそもそも90年代に遡る。当時僕はFMラジオを聴きまくっていたし、FMの雑誌も読んでいたのだが、その中の番組改変期の投稿で「FMを○○放送みたいにするな」というような内容の投稿があった。おそらくはそのときの体験に由来している。