ヘーゲルと論理学の関係メモ

ヘーゲル精神現象学』をちまちまと読む。ヘーゲルの書き方はある意味とても雑で、きちんと腑分けしていれば(同じ言葉を何度も使うようなことをしなければ)いいのにと思うことが何度もある。この書き方で矛盾とか止揚とか書かれてもあまり説得力がないように思える。また、このやり方のままヘーゲル精神現象学の後に論理学を持ってきていることは、論理が意識に従属しているような印象を受ける。論理の普遍性は意識の普遍性?であるなら論理に縛られないとか言っている人はそのことこそが(意識重視になることが)論理の普遍性を強化していることになるのでは?論理の自律性を認めることこそが意識を本当に大事にしているということではないだろうか。

ややこしいのはヘーゲルがこのどちらの態度もとっているようなところだ。彼は最初のプログラムでは論理を意識のあとに置いたが(『精神現象学』→『(大)論理学』)、あとで体系付けたときは論理学を最初に置いて、精神の問題を最後に置いている(『哲学の集大成・要綱』長谷川邦題より)。またそもそも意識が発達しなければ論理がわからないということを最初から意味していたのだとすれば(昔後輩に僕がやっている数学は教えられないと言ったら「どうせわかりっこない」と僕が後輩をバカにしたと誤解されたことがある)、この問題は容易に反転が可能だ。またヘーゲルはその読み方を許容するように思える。記述の雑さに帰着させるべきなのかどうか。

パースとデューイ。プラグマティズムの論理。アブダクションとそれを可能にする図式としての記号過程(パース)。その後論理学の本を著すヘーゲル研究から出発したデューイ。伊藤邦武さんが提示するプラグマティズムの2つの流れ(『哲学の歴史』)はここにも関連しているのではないか。