三つの事情とともに精神分析を理(/誤)解する

新宮一成ラカン精神分析』、講談社現代新書、1995。
僕はラカンがいまいちよくわからない。正確に言うと、ラカンの解説ですら(一般にわかりやすいといわれる本書、あるいは内田樹さんや東浩紀さんの本での説明ですら)わかったという実感、腑に落ちるということを感じたことがない。それはフランス現代思想ラカンに対する批判という側面をもっているという面から見た場合、やはり片手落ちではあるだろう。
今回、ある事情のもとに電車で一時間強×往復の車内で本書を読んだのだが、題名のとおり三つの事情とともにちょっとだけこういうことかなということを感じることができたのでメモしておく。

まあラカンによってすべてを分析するというのはいかにもアレだけど、ラカンがわかり始めたという事情に鑑みて大目に見てほしい。

1.
一つ目の事情はいわゆる高校の単位未履修問題である(余談ながら僕はまさに地方の公立進学校の卒業生である。僕を知っている人ならまあ1.1事情とでいうべきものに感づくかもしれないけど…)。今回本書を読むに当たってまずこの事情がぶち当たった。それは単位未履修問題とは、ラカンの生み出した精神分析の短時間セッションと同じことを無意識のうちにおこなってしまったものなのではないかということだ。教育(ここでは乱暴に教育分析との関連も指摘しておく)とは他の人への伝達を必然的に含む。また、説明の際に自分が理解できるものであるということは当然視されている(自分がわかんない説明を誰が理解してくれるだろう?)。そこには「自分から他者への教育」が説明という「理念的には普遍的なものから自分への教育」に重なる。この教育される自分というのがラカンによれば対象aということになる、らしい(らしい、というのは本書においてすらこの対象aがめまぐるしく様々な説明に使われるため完全に理屈を追い切れていないから。僕自身は第三章「ローマの隅石」の説明に準拠しているつもりである)。新宮さんによれば、ラカンは自分から見た他者のように普遍的なところから自分を見るというものにせきたてられ(てい)るということをとらえるために短時間セッションを、そして対象aを導入した。対して高校に関していえば(同じく学校からすれば文部科学省とか受験生とかその親とかそして自分自身も、つまりは普遍的な要求として)せきたてられていたという順番の相違は忘れられてはいけないのだけれども、二つの出来事が起こるための条件はよく似ているのではないだろうか。

1−1.
そしてこのことに従った場合、二つの未履修問題に対する反応の説明もつくような気がする。一つは当事者のそれぞれが他の人への悪口という反応をおこしていることであり(文部科学省は学校へ、先生は文部科学省へ、生徒は先生へ…)、もう一つは校長先生の自殺という反応である。
他の人への悪口、という反応は先の教育という図式を利用すればわかるような気がする。つまり、自分から他の人への非難は、みんなから自分への非難という関係に重なる。というよりはこれまでそういう図式のもとにいたのだからそう応答するしかないのではないだろうか。だから他の人への悪口とは無意識下において自分も悪いということのあらわれではないだろうか(内田樹さんのブログで読めるこの件に関する一連の記事はさすがにそれがいくつもの立場の人のことを考え、留保のついた、内田さんがよく言うレヴィナスのストレスフルなテキストの書き方をしており、精神分析を経たというか、精神的に問題のないまさに「おじさん」からの視点になっているが、それはその図式を見る分析者という視点からのものなのかもしれない)。
校長先生の自殺については本書第二章の「前夜」にさかのぼる必要がある。第二章ではメラニー・クラインの考え方である「抑鬱体制」(depressive position)という「主体が罪あるものとして自己を設立すること」(p45)をラカン対象aとの関係でとらえなおしていたことが論じられている(pp.54-56、「大文字の物」の場)。校長先生(校長先生はこの問題の中では「中間管理職」であることに注意)はこの騒動の中で自分を罪あるものとしてみてしまったのかもしれない。

ここまで書いてきてラカン理論の都合のよさという面のあやしさに憂慮しないでもない。しかし、これまでのこの事件に関する言説はネガティヴなもの、それこそ当事者たちの行動を否定的に論じ、断罪するだけのものに思われた。本書を読んで考えることで僕ははじめて当事者たちの行動を肯定的にとらえられたということ、これだけは書いておく(とかいいながらさらに注記。それは彼らの行動を肯定的にとらえられただけで、精神分析的な彼らの行動上のシステムについては欠如が、つまり行動原理については最初からその説明はネガティヴにならざるを得ないということもまた同時に現代思想側からのアプローチとして覚えておきたい)。

2.
二つ目の事情とは、僕は最近になってようやく『DEATH NOTE』を読んだのだけれども、その人の本名を書くというルールについて考えていた、という事情だ(前の事例に続かせるのは不謹慎だろうか?本書でも精神分析の解説中に唐突に(同じジャンプ作品の)「DRAGON BALL」による説明が入っていたことを書いておく)。僕がまっさきに思ったのはクリプキの「命名儀式」みたい、と思ったことだった(誰か分析哲学者とかこういう分析やってくれないっすかね、マトリックスとかやってるんだし、とか書いて流してみる)。その縁で東浩紀さんが『存在論的、郵便的』の中でクリプキ的な記述主義をラカン化したものとしてジジェクを引いてたりしたのを思い出した、というわけだ(『存在論的、郵便的』p248以降)。本書の対象a的な考え方でいえば死「神」が死を与えるように自分が相手に死をあたえることができるものという図式に落とせることができ、だからこそ『DEATH NOTE』は面白かったのかな、という単純な話から、自分が殺害を意図する相手の命名儀式とは他者同士のものであり(自分が相手の名前を知っていたらそれをノートに書きゃいいもんね)、その関係をどう結べるのかという話まで、こちらについてはまた考え中である。

3.
最後の事情とは。ラカンが愛についても(これまた対象aだけど)考察をしていたことについて論じている部分から。
「しかし「愛」についてだけはどうやらそうではない。その必然性の強度を人々に向かって演出してみせる神前の儀式のために、我々は法外な支出も辞さない」(p288)。
そう、僕はまさに職場の先輩の結婚式に出席するために電車に乗っていたのであり、その電車の中で本書を読んでいたのであった。ここに書いてもしょうがないのかもしれないが、これも書きとめておこう。末永く、お幸せに。