読んだ本

帰省中なので適当に選んだ本である

の第二部、「ベンヤミンの個人名」を読む。

前にも書いたベンヤミンの出してくる二項対立はそれら自体が相互にたえず干渉しあうものだということをデリダも論じていてちょっと勇気付けられた(これも前に書いたが三木清との共通点でもある「どちらでもなさ」)。追記がインパクトを持つのはそれまでの論述のうち、単純な読解(ロジックとしての)の部分とベンヤミンの思想(これはシュミットとの比較を通して論証の細くとして使われているが)の二つが最後の「恐怖で震え上がる」結論を示しているからだと思う。

しかしこれは中身の分析は相変わらずだけど、追記とイントロダクションが格段によい。三つだけ指摘をしておく。

一つはまさに前に書いた記事の中で使われた「政治の耽美主義化」に相当する「政治的なもののある種の美学化」という言葉が引用符抜きで使われているということである(p185)。これはいうまでもなくデリダの『暴力批判論』の読み方が『複製技術時代の芸術作品』をふまえたものであることを示している。それは暴力を(そしてそれが基礎づける/あるいは維持する法/権利を)見えなくさせてしまう。

二つ目は警察権力にかかわる考察。これはそれこそ生権力とのからみで論じられることでもあろうが、三権分立させたはずの法がどうしても相互浸透してしまうところをちゃんと読み解くべきなのだろうと思う。何気なく触れられている官僚は厳密には法律の執行機関であるが、同時に解釈(ここで解釈学が接続される)を示すことができるという点で立法としての意味合いも含まれている。また同時に法の運用というところに「万人の万人に対する闘争状態」の舞台が移るのだと思う(『FREE CULTURE』、エルドレッド裁判!)。

三つ目は再び一つ目的な言葉の指摘。イントロダクションにおけるナチズムがサーフィンするという文章(p83)。これも生権力とのからみで論じられることが必要であろうが、ジル・ドゥルーズが二十世紀を滑走スポーツの時代だと形容したことに対する何かにはならないだろうか(廣瀬純さんはまさにこのことを紹介したドゥルーズ論を「サーフィンの世紀」と名づけた。『KAWADE 道の手帖 ドゥルーズ』より)。表層―深層なんてのは問題にならないのだろう(『ノマド的思考』、発表後質疑応答)。その生命は生命力に任せるものであれ、むき出しの生であれ、その流れをサーフィンすることが大事なのだろう。ではそのサーフィンと果てに血を流さない最終解決を誤解させかねない(誤解?それは証明できないことがデリダの恐ろしい証明だ)(さらに追記。日本語で書く僕にとってはやはり血ではなく影だけが残った、もう一つの光による最終解決を考えさせられる)サーフィンとをそれこそサーフィンしながら(つまりバランスをとりながら)考えなければならないのだろう。これはドゥルーズ側からも、デリダレヴィナス)側からも答えが出ていない問いだ。サーフィン(sur-face)なのだから。

あと、

を読む。ぶっ続けで読むとうつになるかも、と著者は書いているが僕は全然そうならなかった。ある意味抑うつ的な状態を経験していたところだったからだろう。
この本はただ前作『失踪日記』とちがって日常をそれこそディプレスされたようなマンガが延々と続く。前作と同じ楽しみ方は難しい。書評や模写などの趣味が合えばまあ多少は読みやすいと思う。僕はそういう趣味が合ったようだ。中島らもさんの死が時期的に挟まっているため言及があるし、またかつてのロリコンマンガの創始者としてみれば吾妻さんの美(少女)意識が模写から垣間見えるのがちょっと面白かった(個人的にはCLAMP作品の模写と『てけてけマイハート』の模写がつぼでした)。ちょっと子どもっぽい性格を入れたがる人なのかもしれない。