数学と人との関係

以前ここにも書いたが、僕の大学時代の友人には数学に強い興味を持っていて、実際にそのことについて論文も書くような人がいる。僕からすればうらやましいこのこの上ない才能(才能の問題にしてはいけないのかもしれないけれど、少なくとも数学を好きでいられるというその性質)を持っているわけだが、その彼が

僕にとって数学が魅力的なのは、その非人間性である。
人間はむしろ非人間的なことによって、その輪郭を覆われなければならない。

と書いていたのが興味深かったので、「勝手に注釈、勝手に理解」を試みてみたいと思う。
数学が非人間的であるという指摘が正しいことかどうかはわからないが、ヒュームは『人間知性研究』ISBN:4588150367(正確にはこの著作の元となっている『人性論』のときから)人が

原因と結果の本性と結びつきについて知らせ、一方の対象の存在から他方の対象の存在を推論することを可能ならしめるのは、ただ経験のみである(p153)

といい、経験こそがその蓋然的推論の基礎であるとする。例えコップを100回固い地面に叩きつけてコップが割れたとしても、101回目は理屈上そうであるとはいえないんじゃないか、それを「たぶん割れるだろう」と考えるのはその100回割ったという経験からでしょ、と言ったわけである。

で、大事なのはその考え方が持つもう一つの側面なわけで、彼は

抽象的な科学、あるいは論証の、唯一の対象は量と数であると私には思われる(p152)

と書く。そしてそれが最終結論である

それは量や数に関する何らかの抽象的推論を含んでいるか。否。それは事実の問題と存在に関する何らかの実験的推論を含んでいるか。否。ならば、その書物を炎に投ぜよ。なぜなら、それは詭弁と幻想しか含むことができないのだから。(p154)

になるわけなんだけど、ここで大事なのは量や数を扱うということが人間の蓋然的推論(そうなるだろう推論)とは別に扱われている点であると思う(カントになるとこれをもう一度人の手に取り戻そうと悪戦苦闘するわけだけど、「アプリオリな総合命題」というかなり特殊なものになると言う意味ではやはりヒュームによる独断論への目覚ましが効いている)。つまり、この数を扱うということに関してはそれこそ人間特有のそうなるだろう推論とは違うということが言われていたんだということがわかった。

しかし、だとするとヒュームを現象学的だとしたフッサール

多分、20世紀の初頭というと、この「人間性」といったことが全ヨーロッパで問題となっていた時代でもあったのかもしれない。「人間性」の擁護が、数学が本来持っていた意味の擁護へと漸進的に繋がっていく印象を持つ。おそらくフッサールが人気があるのもそのせいだろう。しかし、やはりフッサールフーコーが正しくも指摘するように「人間学のまどろみの中にいる」。

となってしまうのはどうしてなのだろうか。確かにフッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学ISBN:4122023394。そして実際人間性を擁護しているように読める。しかし、「諸学の危機」と書いているように彼自身は危機とは考えているが、その意味で彼は数学の非人間的な部分をよく知っていた、とは言えないだろうか。僕はフッサールの試みとは確かに数学の擁護を人間性の擁護にすりかえる、と言っては変だけどその性格があるとしても、そのアプローチの方法はまだ必要なのではないかと思える。少なくとも、数学が人と関わる接点については、両方のアプローチを担保しておく必要はある(そしてそれは両立可能である)と思う。

とは言ってもこういうことはわかって書いてるんだろうな〜。結局僕は両立可能なんじゃないかということしかいってないわけだし、そんなこと百も承知で書いているんだろうけど。ヒュームという別の側面から光を当てたかったし、そこから考えて両立可能性を探ろうとしてみたんだけど、うまくいかない。まあ、ヒュームについてはあの人も論じているわけだし。