今さらながらの感想

実は3週間ほど前に某会の勉強会に参加していたわけだが、今さらながら感想を書いてみようと思う。メールでもいいんだけど、書こうとしてみるとあまりにもネタがわかりにくいのでここに書いて見る。

テーマとしては神話、記号学についてのもの。

神話といえばロラン・バルトを思い出す。後にデノテーションコノテーションとして展開されることになる彼の記号論は各種の文化事象を、それが記号化し、かつその記号自体が新たな意味を獲得していく過程を神話として分析することから始まった(『神話作用』、『小さな神話』など。前者は現在新訳が出ているが、今回は旧訳のp148を参照した)。ここから『零度のエクリチュール』のような文芸批評にさかのぼることも、一見常軌を逸している分析の鬼になることも(『S/Z』『モードの体系』)できる(と僕は理解している)。今回は「作者の死」(『物語の構造分析』所収)につながる方向へ話を進めたい。バルトの記号論は『神話作用』後そのラディカルさを増してゆく。ある言葉が神話的意味を帯びていく以上、その言葉の作者というものはその存在意義を失っていく。作者のある作品は作者なんかいない(いてもその関係性が極度に薄れる)テクストとなる。これだけなら話は簡単なのだが、作者や作品は「死んだ」、使えなくなってしまうのか?バルトの理論はそこまで説得力を帯びていないように思われる。増田聡は『その音楽の<作者>とは誰か』(みすず書房)の8章で佐々木健一を参考にしながら作品を作った作者というつながりは消えない、ただしバルトの考えは作品の完成度については作者といえども侵すことはできない、という意味では妥当であることを示している。ここから増田は作者どころか人間一般の消滅を論じたはずのフーコーが逆に作者というものを精密に分析していること、およびそこからの分析結果を当てはめれば作者、つまり作者概念に相当する人物が複数誕生することは避けられないことを示す(なお、ネルソン・グッドマンとキャサリン・エルギンは作者がサルでもありうる可能性を『記号主義』において示唆しているが、これもまた面白い話題であろう。思いつきのため詳細は割愛する)。
ここで重要なことはバルトの記号論ソシュール記号学の恣意性をフルに活用しながらも、作者概念においてソシュールが恣意性の原理を無茶して通そうとしたときと同じ無茶をしていた、ということだろう(ソシュールの無茶については『恣意性の神話』第1章に詳しい)。また、先述の箇所においてバルトは神話の記号学分析の箇所で箱をモデルにした説明を使ってしまっている。これは今回の勉強会で得たコードモデル(ちなみに今回の勉強会におけるコードモデルは恣意性の原理に基づいたコード/デコードされるはずだという一種の思い込みに近いような考え方全般を指しており、一般的に言われているコードモデルよりは広い意味で使っているように感じた)に対する批判がそのまま当てはまるだろうと思う(なお、記号論の箱モデルに関してはドゥルーズガタリの批判が有名。しかし今回の勉強会により少し大味に過ぎるように思うようになった。ただし、大味にでも切っておかなければならなかったその切迫感についてはおさえておく必要があるように思われる)。
ところで先ほどバルトからフーコーの作者概念分析の流れを増田聡のまとめに従い書いたが、そのようなゆるやかな関係をどう分析するか、ここまで来てはじめて今回の勉強会の僕にとって一番の収穫がある。それはどういうことかというと、作者の複数性を既に前提とした分析がなされていたように思われた、ということだ。今回の内容であれば一人がどのように考えるのかということについての結論ではあったが、それは作者が複数いますね、で終わるのではなくそれぞれがどのような役割を果たしているのか、どのようなつながりがあるのかということについて十分な示唆に富んでいる、と思う。

ちなみに僕は卒論で似たような問題を取り上げたことがあるのだが(増田さんの本はまだ出ておらず、ホームページからひっぱりまくった)、フーコーも読んでたはずなのにこれを無視してパースの記号過程を援用したのだった。作者の複数化は示しているが、フーコーがちゃんと読めてればもっとちゃんと分析できたのに加え、パースはどうしても記号論一般だから議論が粗くなってしまった。また、『記号主義』も読んでたのに今回の感想で始めてつながった感がある(当時かなりちゃんと読み込んでいたはずなのに)。…何か書くたび恥ずかしくなってきたぞ、自分。

ちなみにこの後勉強会のメンバーから忌野清志郎がちょっとだけでておいしいところ全部持っていった動画とか見せてもらったことも(作品に関わる人の複数性およびその価値)、水曜どうでしょうの会話をしたことも(後に四国の話題になったとき下手に地名を言うより寺名いったほうがわかるというあたり、この番組は恐ろしい影響力を持っているようだ)(「ここを今日のキャンプ地とする」は再帰性を含んだかなり大事な直示指示的言語行為であるわけですし)、十分ここでのヒントになっております。多謝。