やっと来た

amazonに注文してから1ヶ月近くしてやっと来た2冊。

『絵葉書』はどこまで読めるかわからないけど(おそらくはなぞるような読み方しかできないとおもうけど)読んでみたかったので。思い出してみるに僕が歌詞の力を強く感じたのはTHE BOOM手紙だった。恥ずかしい過去にはなるがおそらく自分が最初に書いた言葉―それは詩とも散文ともつかないが―は露骨にこれを真似たものだった。今は破り捨てられ、燃やされてもうない、はずだ。以来僕は書簡文体がなぜか好きで往復書簡ものとかもよく読むことになる(本当になぜなのだろうか―ヘーゲルの『精神現象学』によれば個別的なことに対する確信はその確信を言葉という普遍性を持つもので表現することで破綻する―書簡という誰かに宛てた文章が少なくとも読めてしまうということにその原因があるのだろうか(余談ながらヘーゲルのこの認識論(=精神現象学)に従えば私的言語についても何らかの結論が導けそうな気がする))しそのせいか、この本には何かもう一度戻ってきたというか、軽い既視感を覚えてしまう(既視感を覚える理由はもう一つ、いや二つある(←スペインの宗教裁判官みたいだな)。それは手紙という限りなく伸ばされた現在形「君が元気なのを僕は知っている」/「でも明日、君に手紙を書く、私はいつもこのことを現在形で言う」、そして彼らは手紙を電話線で結ぶ、ということ「すぐに君に電話する」/「今度電話でもするよ」、後者のことを考えた場合、今携帯電話にメール機能がついたということは、あるいはメール機能のデバイスに携帯電話が選ばれたということは半ば必然的な気がする。もしくはメールする仲とは電話する仲とイコールでなければならないという不文律(話し言葉と書き言葉の合間のことだから不文律に決まっている)。大学入学時の、一人の女の子にむらがるように携帯電話の番号を聞いていたイメージ―まあこれは当時携帯をもっていなかった僕が捏造した疑いが大きいけど)。
『大全』は元ネタを知りたかったので。第2シリーズ後半と第4シリーズはDVDがないので予習扱いで読んでおくか、あとの楽しみに取っておくか。