カントの生命論的展開?

以前買った二冊の本を読み直す。

前者の論文ではカント―フッサールのラインでは若干カントよりになりながらもそこから違うものを取り出そうとしているのが面白い。僕はこれをカントを生命論的に展開しているのではないかと(いうことができるのではないかと)考えている。

フランス哲学の中で「生の哲学」者として有名なベルクソンは『創造的進化』の中でカントをデウス・エクス・マキナ的と批判している(岩波文庫版、p246)。また、後者新書内であげられている物自体という考え方についても「「物自体」をみとめてかかりながら、これについては何一つ知ることができないと称する」(同上)ことに疑問を呈している。ベルクソンはカントの認識論としての予定調和的部分に変化するという観点をもちこむことで、カントそれ自体を読み替えようとしていたのではないか(ベルクソンは新カント派をバカにしていたが、カント自体は読んでいたという事実がそれを裏付ける)。

ちなみに前者論文について補足するならば最初僕は認識論を存在論的に変換しただけかとも思っていた(事実そういう記述がある)。ただそれだけではカントの認識論を存在論にすることは難しい。何よりカントの議論に従えばそういうことはできない。また、ハイデガー存在論によりカントの認識論を存在論として読み直せたかどうか、これについてはハイデガーの本を読み直す必要があるため断定はできないが、おそらくは難しいのではないか。ベルクソンの生命論的展開はカントの認識論を存在論化するためにもまた必要な手続きではないだろうか(それはあたかも亡くなった人についてある種の存在論的地位が失われるように。そのこわばりを不気味なものに回帰させたのはデリダの「幽霊」で、笑いに変えたのがグレアム・チャップマンの「遺灰」だ)。

あと、西田幾多郎なんかもそうで、カントは直観を図形を頭の中で展開する(純粋直観)と図に描いてみる(経験的直観)にわけて考えたが(さらに言えばアプリオリ総合認識自体がプラトン『メノン』の想起説なんかも結びつくのかもしれないが)
なぜ西田幾多郎が「行為的直観」なんて言い出したのもなんとなくであるがわかる気がする。

下村寅太郎さんが書いた文章の中に『西田哲学における弁証法的世界の数学的構造』というのがあるが、前者論文とよく似たことが書かれてあった(と感じた)ので引用する。
KAWADE道の手帖西田幾多郎』pp.167-168より)

「それ故、純粋思惟の上にのみ成り立つことを主張する純粋数学の如きものも、実は真の意味において純粋ではない。それ故、純粋形式主義に立つ公理主義の数学が、その最後の問題として自己の体系の非矛盾性を証明せんとして建設するいわゆるBeweistheorieあるいはMetamathematikは、自ら認めざるを得ないごとく、「記号の世界」でなければならない。しかして記号の世界は、いわゆる純粋思惟の世界、単に可思惟的な論理の世界ではなく、西田哲学の意味における、「表現の世界」、既に了解の対象の世界である。いうところの<純粋数学>(実際は傍点による強調、引用者注)もかくして既に行為的直観の立場において初めて成立する。」

最後に『知の欺瞞』と上記『西田幾多郎』内の小泉義之檜垣立哉対談を読む。一方で数学の濫用を指摘され、もう一方では数理哲学の伝統を引き継ぐものとしてドゥルーズがあげられてるのは、このカントに対する立場の違いもまた影響しているのではないかと思う。いわゆる従来のベタ読みであればアプリオリに認識拡大できる、ただそれがゆえに頭でっかちになって余計なところまで理性だけで対処しようとすることを戒めたカントの危惧がドゥルーズに対してはそのまま当てはまる。しかし、そもそもカントを(いろいろ含みはあるが)「敵」と呼んだドゥルーズベルクソンや西田のような考え方をしていた場合、すでに濫用だと叩かれることを予測(正確ではない。予測というより、関係なく思ってたはずだから)していたことは想像に難くないのではないだろうか。もちろん、それが言い訳にはならない。しかし、一つの思考形式としてやはり考えておくべきことではないかと考える。