自由をはさみうちにする

山形浩生さんがレヴィ=ストロース神話論理が出たことに対してコメントしている。この論法は山形さんが『たかがバロウズ本。』でやったことと一貫している。通常のなんとかありがたがろうとする意見をバッサリ切った後、その残骸をあらためて見直す、という骨の折れる仕事だけど、その分わかりやすさと面白さが両立したものになっていると思う。あと、ここまでミもフタもない書き方を出来る人がいない、というのもあると思う。橋爪大三郎さんは『はじめての構造主義』で『親族の基本構造』は丁寧に書き進めているんだけど、『神話論理』になるとちょっと書き方が消極的になってたし。最初に読んだときは初期のを解説しておくほうに重点をおいたというのがあると思っていたけど(それももちろんあるんだろうけども)、今は別事情もあったんじゃないかとか思ったり。
で、山形さんの面白いところはバロウズレヴィ=ストロースのそれぞれが目指した方向が一見すると全然違うほうに向いているのにその一貫した方法をしているということ。バロウズはフレーズをごちゃまぜにすることで新たな意味が持つようになったという言い方なのに、レヴィ=ストロースは逆に世界中の神話のバラバラさを一定の構造におしこめるように分析をしている。この違いは何かと言われたら、結局自由とは何か、そのことを山形さんは丁寧に考えようとしているんだと思う(デネットの『自由は進化する』も訳してるし)。
バロウズ本のときはレッシグについてもやってたときで、だからバロウズ本では最終章あたりで『CODE』を一部持ち出してきたりもしてるんだけど、バロウズレッシグで結局何が言えるかというと、今あるものについてはいろいろやれるようにしておかなければならない、ということに尽きる(と思う)。一方、レヴィ=ストロースはある程度の共通地盤の上で自由というのは成り立っている、それはいろいろやれるようになったときに、ものすごいジャンクの上に新しいものができるようになるかもしれない、いやならないかもしれないという事態になることを示している(ように思う)。
その中間地点の意見として『InterCommunication』にある山形さんのエッセイは面白いんだけど、例えばアートならば、いくら素材を自由に使えるようになったってぶっちゃけ駄作が増え続けるだけのときがあるということを指摘して、で、その中で何かセオリーみたいなのが出てくるかもしれないと書いていた(ように思う)ので、その前段階的にやっぱり素材を使えるようにしておくほうがいいのかもと思わせる。
自由の二側面、本能のままに何でもやることが自由であるという側面と、本能に縛られず自分の意思で決められるようになることが自由であるという側面から山形さんは自由をはさみうちにしているような気がする。