メルロ=ポンティの意味論

メルロ=ポンティの意味論』河野哲也著、創文社、2000。
担当箇所(第九章)の下読みをし始める。とりあえずざっと通読。

大雑把な感想を言うと、まずメルロ=ポンティの意味論は身体図式をもとにした指示理論、と要約できるが、それは指示が一方的なものではなく、ある種の交流と言った特性をすでに帯びているところに特徴がある。現在僕は自分でフロイトを読んでいるところであるが、言葉をふるまいとして捕らえている点、単なる行動主義でも(静態的な)構造主義でもない点(それはメルロ=ポンティの最初期の著作に逆説的に示されている)において似ている点があると感じた。
それは『幾何学の起源(およびその序説)』のあとがきにおいて田島節夫さんがデリダに質問した「メルロ=ポンティに対する評価は厳しいのではないか」に対する答え「最近の学生はメルロ=ポンティを読まなくなっている、残念だ」に現れているのではないか。つまり、フッサールをあくまで方法上の師匠(『言葉にのって』)としての縦糸とするならば、横糸であるフロイトハイデガーに対する可能性を読み込もうとしていたのではないかという仮説を立てて読むことができるのではないか。であるとするならば今回の著作全体の読解においてしばしば唐突に持ち出される感のある名前、ラカンについての言及もそれなりに的外れでないことが確認されるのではないか。
個人的にはフッサール(およびレヴィナス)によっての他者論(「「独我論者」は絶対的独我論で自分以外の世界を認めない、それゆえ逆説的に絶対的「他者」を想定する権利を初めて与えられる」)とフロイトハイデガーによる(それこそ東浩紀さんが「郵便的脱構築」と名づけた)対(内?)世界論の微妙な関係こそが読み取られるべきなのかもしれない。

…とか自分でも半分何言っているのかわからない落書きで「読んでます」というアリバイ作りをしてみました。