ルクール『科学哲学』

月曜社のスタッフが書いている「ウラゲツ☆ブログ」に詳細な解説記事があるのでそちらを読んだほうがいいし(8月21日の記事)、僕も半分はそれに影響されて購入、一読。
印象としてはよくも悪くも教科書的というか、紹介的な本。これは決してポジティヴな評価でもネガティヴな評価でもない意味で使っているんだけど、ともかく情報量は多い。正直なところフランスエピステモロジー史だけかと思っていた(これは僕がルクールという人をよく知らなかったからだということが後にわかる)。しかし、この予想を裏切っている。それはエピステモロジー哲学史の中に組み込んで記述しているからだ。そもそもフランス哲学として独自の系譜を持つこの言葉自体がその独自性をもっとも主張するべきところ、つまりラッセルの仏訳が初出だということは初めて知った。実際、エピステモロジーという言葉はギリシア語で言うエピステーメーのロゴスであり、それは同時にヨーロッパ語ではある程度どこでも使われることを示している。フランス哲学におけるエピステモロジーはその独自性をあらわすためにルクールは「歴史的エピステモロジー」とわりあい納得のいく言い方をしている(バシュラールをフランスエピステモロジー創始者として紹介している箇所において、p123)。しかしあくまで本書は英米哲学における科学哲学とフランスエピステモロジーに代表される(代表される、という点が大事)科学哲学の二つの流れを紹介することに主眼を置いており、しかも古代から近代の科学哲学的哲学史をおさらいさせるようにしながらもコントとヒューウェルを紹介することできちんと伏線を強いている点がニクイ書き方である(第二章、pp21-22)。また、ちゃんと書いてあることがわかる人にはわかるようにもなっている。例えば僕はネルソン・グッドマンという人の本は少し読んだことがあるので言及箇所(第十章、pp.79-83)はそれなりに興味を持って読んだんだけど、ヒュームのどこがグッドマンに受け継がれているのかについて、「ある種の規則性が習慣を生まないことに気づかなかった」点をグッドマンが批判しているとサラッと言ってのけてしまう。飯田隆さんの『クリプキISBN:4140093102、ヒュームについて言及しているいい本だと思うけど、ヒュームとグッドマンに限るのであれば、飯田さんに公平な言い方をすればクリプキの考え方がよりいっそう明確になる準備段階として、この第十章は優れていると思う。教科書的というか、包括的に物事を書いている本において、自分のわかりそうなところでの面白い記述は、他の記述を信用するに足る何よりの証拠となる(余談になるが、グッドマンの『事実・虚構・予言』はフランス語でさえ戸田山さん言うところの「イカした題名」を訳せないのがちょっと面白かった)。
ただ、少し深い見方をするのであれば、僕の友人にまさにフランス哲学としてのエピステモロジーを研究している人がいるのだけれど、その人の記事を読んでほしいと思う。実は、ルクールの『科学哲学』はある種の簡潔化を施しているという意味で教科書的、入門書的と書かざるを得なかったのは、この記事を読んでしまったからでもある。ある程度要約しながら紹介すると(彼はこういった新刊が出たときにあえて月曜社さんが「入手困難」としたルクールはルクールでも『理性』をもとに話をしているコアな人物である)、フランスの科学哲学には3つの流れがあり、ルクールは「(1)仏科学哲学の中でも英米哲学よりの人物」であるのだと言い、他にはルクール言うところの「(2)歴史的エピステモロジー」に特化したダゴニェ(ちなみにこの人の考えを受け継いでいるのが現在仏科学哲学者として有名な金森修さんだとのこと。また直接は書いていないが、フーコーの分析方法もこの影響下にあり、その意味でルクールとは違い、「エピステモロジーの継承者」と考えている)、そして友人自身が研究しているカヴァイエスに代表される「(3)数理哲学からの記号(あるいは概念)の哲学」の3つの流れがあるとのこと。この見方は重要であると思う。おそらくは彼自身、この3つを混同していた時期があったからこそ、はっきりした見取り図が得られているのだと思うし、この3つの流れを頭に入れておけば、『科学哲学』もそれなりに深く読むことができる。例えば、彼によればルクールは科学哲学の構築を目指すが故にバシュラールへの回帰、それをもとにしたフランスエピステモロジーの流れを強調すると書いているが、たしかに『科学哲学』はそのような構成になっている。ただ、ルクール側にたてばそれは「二つの伝統が遭遇する」、あるいは「相互承認」するという形になるだろう。ただ、そのときに3つの流れを無理やり1つの流れとしてとらえていいのかという批判は(3つの流れが、少なくとも下流に至れば違うところに注いでいるということを示せるならば)有効な批判であると思う。ただ(本当はこういう接続詞のつなげ方は変なんだけど、あえて「ただ」と書かせてほしい)、その差異を際立たせることが、数学のある種普遍性(それこそ上の修さんが主張したスピノザのような)を語ることと矛盾しないかということを考えねばならず、非常に難しい(そしてそれに四苦八苦して研究するのを横目で見るのは非常に意地の悪い楽しさがある)。
そしてそれは最後にライプニッツ、カント、フッサール、特に後の二人をフランス受容の観点から研究するという提案につながっていくが、これも難しい(ちなみにルクールは『科学哲学』において、フッサールについては『形式的論理学と超越論的論理学』→カヴァイエス、同時にカヴァイエス論理実証主義という点を逃していない)。僕はむしろライプニッツだろうと思う。それは京都学派で言えば下村寅太郎(この人は後藤繁雄さんのインタビューを受けている。松岡正剛さんとあわせて非常に編集者に愛された哲学者だったのが個人的には面白い)と西田幾多郎の相互影響の話になるし、その観点も含んだドイツのカッシーラーとの対比で『セール、創造のモナドISBN:4925220101し、石黒ひでさんはどっちにも通じているし(ライプニッツ研究で知られる石黒さんは『みすず』を読んでいたら95年の時点でシナスーのカヴァイエス論を読んで評価してて、とても驚いた)…。いや、こういった既知の事柄を示すだけなら、研究にはならないのかもしれない。僕は、影響を受けやすいのか、自分がそもそもそうなのか、どうもルクール的に、すでにあるものを整理し、使ってしまいがちだ。これもまた自分の読書プランの一計画としておくのが正しいのかもしれない。