引越しして数ヶ月経ったが、図書館を見つけ、入ってみた。
そこで久野収編の三木清論集を読んだんだけど、その中の解説で編者が「三木とよく似た思想家はドイツのヴァルター・ベンヤミンであろう」とか書いてあった。実は僕もよく似ていると思っていたので、何か嬉しかった。

俗なところでは才能を持ちながらのキャリアからの離脱(もっとも三木清は法政大学の先生になっているけど)や女性問題が挙げられるだろうけれど、やっぱり次の二点かと推測される。

上記事情とも関連するが、二人とも論文形式の文章に加え、いわゆるエッセイの形式での代表作が多い。エッセイは実はとても読みにくい。なぜなら、最小限の言葉で最大の情報量を詰め込んでいるからだ。

正確には葬り去られたアプローチ法とでも言うべきか。二人とも接近の仕方が独特である。三木清は意外とマルクス主義に対して批判的に書いているところがあって、単純な接近(単純って言うと語弊があるかもしれないけど、少なくとも一般的ではない)をしていないところが面白い。しかし、だからこそ戦後に彼らが生存することはなかったのかもしれない。木田元さんはハイデガーのナチ加担問題に触れ、「あの当時はファシズムかボルシェヴィズム、二者択一的な雰囲気があった」という趣旨の記述をしていたと思うが、これは暗に二人の末路を言っているようにしか見えない(『新人生論ノート』で原『人生論ノート』の著者である三木についても触れているのに変に深読みしてしまうし)。