顔とか身体とか

メルロ=ポンティとかレヴィナスとかの面白いところはフッサールハイデガーの両方から考えているところだと思うんだけど、顔とか身体とか言い出す辺りはハイデガーのあるものをあるほうからのまま見る(だったっけ?)の基礎存在論としての現象学の定義に近いかな、と思っている。

フッサールは顔とか身体(これはイデーン2で言ってたんだっけ?)についてはあまり書いていなかったわけだけど、なぜそうしなかったのかと言うと、その顔を志向する状況を記述するほうが彼にとって重要だったからではないだろうか。顔、身体が発するメッセージを受け取る自分と見る自分。そこを犠牲にしてもたどり着きたかった場所があるのではないかと唐突に思う。